日本軍の虐殺を目撃した父 体験聞いておけば…「名簿」からたどる76年前


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1941年撮影の父親の軍服姿の写真を持つ息子の知念栄得さん=4月26日、那覇市

 沖縄戦で日本軍を指揮した第32軍司令部(球第1616部隊)が1944年に作成し、戦後に復員庁が生死を書き加えた「留守名簿」(南方)の全容について、本紙が1月に報道した後、動員された親族に関する問い合わせが本紙に相次いだ。このうち、知念栄得さん(77)=那覇市=は、2002年に亡くなった父親栄章さん=享年87歳=の氏名が記載されているかを尋ねた。栄章さんは戦争体験を語ることはなかったといい、知念さんは「生前におやじの戦争体験を聞いておけばよかった」と惜しむ。

 栄章さんの氏名は名簿にあり、「軍馬手」と記されていた。体験を栄章さんのいとこで、知念さんの叔父に当たる賢亀さん(87)=那覇市=に、生前語っていたという。

 賢亀さんによると、栄章さんは39年に旧満州(現中国東北部)とモンゴルの国境付近で、日本軍とソ連・モンゴル軍が武力衝突した「ノモンハン事件」を体験した。その後、沖縄に戻った。沖縄に32軍が編成されると、栄章さんは「召集も時間の問題」として、那覇市松川にあった32軍司令部に志願し、「軍馬手」として徴用された。長勇参謀長の軍馬の世話を任された。

 賢亀さんは、栄章さんから聞いた話として「長参謀長は何の理由もなく近くにいる人の顔を殴った。義兄(栄章さん)も何度も殴られた」と語った。栄章さんは、長参謀長の南部撤退に付き添い、糸満市摩文仁の手前で一行とはぐれた。ハワイの捕虜収容所に移送された後、沖縄に戻った。

 栄章さんの語りたがらなかった体験が、佐木隆三さんの「証言記録 沖縄住民虐殺」(1976年)に記されている。同書によると、米軍上陸後、栄章さんは虐殺の現場を目の当たりにしたことを証言している。

知念栄章さん

 松の木にくくられて捕虜の米兵が処刑され、日本軍の敗戦を話した、南方から帰ってきた「首里さん」が十数人の女性らに銃剣で突かれ、女性らは顔をそむけて涙を流したという。歌を歌いながら歩いていた男性が日本軍将校に虐殺されたともある。

 留守名簿で栄章さんの氏名を確認した知念さんは「叔父から聞いた通り、本当にそうだったのか」と驚いた。自身の戦争体験を息子に話さなかった栄章さんについて、「戦後もずっと引きずっていたのではないか。二度も虫けらのような負け戦を体験し、戦争はいけないという思いを抱いていた」とおもんぱかった。 

 知念さんが幼い頃に「寒い」と言うと、一度だけ栄章さんは「こんなのロシアや満州に比べたら寒くないぞ」と語った。厳しい父だったが、情に厚く周囲に慕われていた。栄章さんは不慮の事故で亡くなった。

 本紙には知念さんと同様、留守名簿における肉親の氏名の記載に関する問い合わせが複数寄せられた。「首里の実家に、東村出身の一中(県立第一中学校)の生徒らが下宿していた。彼らのことが分からないか」などの消息を尋ねる声もあった。 (中村万里子)