玉城流玉扇会二代目家元で重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者の玉城秀子(79)は那覇商業高校の8期。沖縄の芸能史に名を刻む祖父の玉城盛義の下で芸を磨いた。「盛義の踊りを受け継ぐ」という使命感で芸道を歩んできた。
1941年、那覇で生まれ、父の仕事の関係で満州(中国東北部)へ渡った。「満州での記憶は全くない」という。沖縄に引き揚げ、玉城盛義から踊りを学んだ。劇団の子役としても活動する。
「劇団と一緒にあちこち回り、学校も転々とした。通知表はなく、教科書は先生から借りた。友達と遊んだこともなかった」
秀子は盛義の養女となり研究所のある那覇市樋川で暮らした。指導は厳しかった。「自分の子はやって当たり前。目で見て覚えなさいという感じだった」。祖母もしつけに厳しく、小学生の頃から炊事、洗濯、掃除を任された。
中学に入っても部活動はできず、受験勉強に打ち込む余裕はなかった。それでも那覇商業高校の制服にあこがれ、進学に消極的だった祖母に受験を許してもらった。「入学式の日、制服を着て登校した喜びは大きかった」と語る。
1年生の時の遠足で中城公園まで歩いたことが記憶に残る。「道路のアスファルトが熱くて、足が痛かった」。2年生の修学旅行では船で東京に行き、北海道まで渡った。
体育祭も忘れられない思い出だ。「男女で踊るフォークダンスで男子の手に触れることができなかった。棒切れでつないだんですよ」。綱引きではなぎなたを握って支度を演じた。一緒に演じたのは同じ琉球舞踊の道を歩むことになる金城美枝子だった。
就職はせず、卒業後はひたすら芸に打ち込んできた。「今では、厳しいしつけで芸道に導いてくれた祖母には感謝しています」
71年に盛義が他界した後、玉扇会の支柱となり、75年に二代目家元となった。「玉城の踊りを一代で終わらせないという思いだった」。現在、三代目家元となった息子の玉城盛義(大田守邦)と共に琉球舞踊の至芸を守り続ける。
玉城流扇寿会家元で国指定重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者の金城美枝子(80)は7期。秀子と共に綱引きの支度を演じたことを懐かしむ。「綱引きは阿麻和利の格好をして、秀ちゃんと一緒に支度をやった。とてもいい思い出だ。学芸会でも踊るのは秀ちゃんと私だと決まっていた」
台湾の基隆で生まれた。水産会社で働いていた父が敗戦翌年に他界し、しばらく会社の宿舎で暮らしていた。舞踊の道を歩み出したのは基隆にいる時だった。母に連れられて姉の谷田嘉子と共に役者の大嶺朝章の下で学んだ。
沖縄に戻り、2人は玉城盛義の下で学んだ。「玉城先生はあまり話さない。目を見て、先生が何を言おうとしているのか考えた。中途半端な稽古はしない。厳しかった」と話す。姉の谷田とはその頃からコンビ踊りをやってきた。
生活は厳しかった。「父が亡くなり、母一人で苦労しているのを見てきた。那覇商業高に入ったのも就職に有利ということからだった。母を早く手伝いたかった」と語る。
高校生活を送っている間に金城を取り巻く環境は変わった。踊りの仕事を受けるようになったという。学校を早引きすることもあった。「先生は理解してくれて踊りがある日は早く帰してもらった」と当時を振り返る。
高校3年になり、就職活動が始まるとクラスの生徒は誰もいなくなった。卒業前の3カ月間だけ化粧品店に働いたが、卒業後は就職せず、自身の道場を開いた。
1974年、結婚を機に名古屋市で暮らすようになる。沖縄で教えていた弟子に対する責任を果たすため、沖縄と名古屋を往復しながら指導を続けた。30年ほど前、名古屋にも教室を構えた。「4、5人の生徒から始めました。今では名古屋でもうちなーやまとぅぐちで指導しています」
長い芸歴を振り返り、金城は語る。「少しは沖縄の舞踊に貢献できたかなと思っている。踊り一筋でやってきた。どこにもない沖縄の匂いを感じることができて幸せだ」
(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)