沖縄セルラー電話(那覇市)は今月1日に、1991年の創立から30年の節目を迎えた。ごく一部の人しか携帯電話を持っていなかった時代に、県内主要企業43社の出資を受けて設立され、現在では県内シェア50%強を占めるまでに成長した。島しょ県という地理的な制約を克服するために、通信インフラの整備拡充に力を注いできた。湯淺英雄社長は「われわれの強みは沖縄に特化していることと、良いことはメガキャリアよりも先に挑戦できることだ」と語る。
KDDIの前身であるDDI(第二電電)は、87年の関西セルラー設立以降、全国各地域に次々と会社を設立し、移動通信サービスを提供していた。沖縄は当初、九州セルラーの管轄とする予定だったという。
沖縄セルラー電話誕生の契機となったのは、90年10月、全国と沖縄の財界人が交流する「沖縄懇話会」の発足総会だった。京セラとDDIの会長を務めていた稲盛和夫氏が、自動車電話・携帯電話会社を沖縄に設立することを提起。財界の重鎮からの提起に、沖縄側の主要企業が呼応した。
沖縄懇話会の中心メンバーで、当時の琉球石油(現・りゅうせき)社長の稲嶺恵一氏(後に県知事)が、沖縄セルラーの初代社長を務めた。稲嶺氏は「沖縄に利益を還元させるために、沖縄に本社があることが重要だった」と振り返り、当面は利益が見込めなかったことから無報酬で社長を引き受けた。
基地局の建設などを進め、92年10月に通信サービスを開始。96年3月に稼働5万台を達成した。97年に日本証券業協会に株式を店頭登録し、後にジャスダックに上場するなど経営基盤を安定させていった。
離島県沖縄で、設立以来の目標だった通話エリアの人口カバー率100%を、07年に達成した。湯淺社長は「通信手段は、都心部より離島などの遠隔地にとってより重要だが、採算性の問題が立ちはだかる。沖縄の会社だからこそ、使えない所があってはいけないと投資してきた。地域が成長すれば必ず良い形で返ってくる」と話した。
20年には、大規模災害に備えたネットワークの強靭(きょうじん)化などを目的に、沖縄本島と九州を結ぶ海底ケーブルの運用を始めた。台風などの災害時に復旧する際にも通信は必要不可欠となるため、停電しても通信を維持できるように電源を確保するなど、積極的な投資を続けている。
現在では通信技術を活用した野菜やイチゴ工場、オフィスビルの整備などの事業に積極的に取り組んでいる。携帯電話は1人1台を持つ時代となり、今後台数を飛躍的に伸ばしていくには今まで以上にコストがかかることから、コア事業が順調なうちにIoT技術を生かした新規事業を伸ばしていく方針だ。
投資余力を確保するために、財務の健全性にこだわり、無借金経営を続けている。今後、第5世代移動通信システム(5G)を活用して、オンライン診療などのヘルスケア事業や教育など、離島のハンディを解消する事業に力を入れていくという。湯淺社長は「常に先手を打って、スピーディーなチャレンジを続けていく」と話した。
(沖田有吾)