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自由な言論活動の規制 国策への異論、排除の動き 報道の基盤が崩壊危機<メディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 玉城江梨子
米軍による本島北部の森への廃棄物の問題などを調べ伝えている宮城秋乃さん。=2019年、国頭村安田

 先週6月4日、チョウ類研究者の視点を生かし米軍北部訓練場エリアを中心に自然保護を訴えてきた宮城秋乃さんが、威力業務妨害名目で自宅の家宅捜索を受け、パソコン等を押収されたという。くしくも国会では本紙が繰り返し問題点を明らかにしてきた土地利用規制法の議論が進む。この二つの出来事も含め、2010年代以降の事例を並べると見えてくるものがある。

 それは自由な言論活動を規制し、とりわけ国策に反する異論を排除しようとする動きだ。当欄でも個別に触れてきたものが多いが、改めて整理し直すことで、「いま」起きていることの意味がより明確になる。

<立法>一つ目の線

 最初に結ぶ線は、取材の自由を制約する法律群である。あえて表現の自由を制約しないという留保条項を設けたり、国会答弁で厳格運用にわざわざ言及したりするということは、それだけ恣意的(しいてき)な適用危険性が大きいことの証左でもある。
 ▽不当な取材に刑事罰を科す特定秘密保護法(13年12月)
 ▽基地周辺の撮影を禁止したドローン規制法(16年3月、19年6月改正、20年9月再強化)
 ▽対象を大幅に拡大した改正盗聴法=通信傍受法(16年5月)
 ▽実行前の恐れをもって処罰を可能にした共謀罪法=組織犯罪処罰法(17年6月)
 ▽ビラまき等の制限を強化した東京都迷惑防止条例改正(18年3月)
 ▽取材等の移動を制限した改正新型コロナ特措法(20年3月)
 ▽基地周辺の住民調査を可能にする土地利用規制法案(21年5月)

 実はこの前にも「予兆」はあって、以下の法律でも取材・報道の自由を直接縛る条文が新設されていた。
 ▽テレビの広告・報道を厳しく制限した憲法改正手続法=国民投票法(07年5月)
 ▽裁判員への接触を禁止した裁判員裁判開始(09年5月)

 これら法律群の厄介なところは、法律ができても何も変わっていないではないか、反対論は「ためにする議論」で、心配は杞憂(きゆう)にすぎないという反論があることだ。もちろん、目に見えた問題は「まだ」起きていないかもしれない。しかしそれは立法時における指摘が「歯止め」になっていて、慎重な運用が行われているということの裏返しでもある。

 これら法制度の多くは「治安立法」であって、しかもその詳細運用は政令もしくは行政の通達(告示)でいかようにもなりうる。しかも、ルールが幾重にもかぶさっていくことで、想定していなかった「できないこと」が突如生まれる可能性も否定できず、取材・報道の自由の基盤が徐々に崩れつつあるという認識が重要だ。

<行政>二つ目の線

 次の大きな流れは中央・地方を問わない行政の強圧的な姿勢であり、恣意的な解釈変更による行政執行(処分・措置)である。ここで取り上げるのは全体のごく一部ともいえ、特に美術館・博物館の展示制限や、各自治体における主催・後援・協力行事に対する直接間接の介入事例は枚挙にいとまがないといえる。
 ▽国立新美術館ほか各地で展示中止・差し替え相次ぐ(14年~)
 ▽自衛隊配備報道で防衛省が当該紙とともに新聞協会に抗議(14年2月)
 ▽辺野古工事取材の妨害続く(14年8月~)
 ▽辺野古抗議活動で参加者を逮捕(15年2月)
 ▽菅官房長官がBPOの放送法解釈を誤解と発言(15年11月、政府統一見解発表16年2月)
 ▽高江ヘリパッド工事取材で妨害相次ぐ(16年7月~)
 ▽経産省前の原発テント撤去(16年8月)
 ▽高江ヘリパッド抗議活動で参加者を逮捕(16年10月)
 ▽千葉市が朝鮮学園への補助金を交付取り消し(17年4月)
 ▽沖縄防衛局が北部演習場内のオスプレイ写真に対し不法撮影として掲載誌に抗議(17年7月)
 ▽戦争取材予定のジャーナリストの旅券を没収(19年2月 15年2月にも同様事例 その後も)
 ▽首相の街頭演説でのやじ者を排除(19年7月)
 ▽首相会見の制限が問題化(20年2月 それ以前から官房長官会見でも)
 ▽あいトリの補助金を不交付(20年9月)
 ▽日本学術会議の任命拒否(20年10月)

 この領域についても以下の「前史」がある。
 ▽放送局に対する総務相の行政指導が頻発(04~09年)
 ▽イラク復興支援特措法に合わせた従軍取材協定(07年5月)
 ▽警視庁のムスリム監視が発覚(10年10月)

 あるいは直接的ではないにしろ、内閣人事局の設置による官僚人事の一元化(14年5月)や、有事法体制の再整備に伴う私権制限の常設化(15年9月)が、こうした強面(こわもて)行政の後ろ盾になっていることは想像に難くない。

<社会>三つ目の線

 そして三つ目が社会全体に漂う規制に寛容な市民感情である。ある意味では、これが最も厄介なものでもある。なぜならそのうちのいくつかについては、自由の制約によって公共益が担保されるという側面があるからだ。

 直近は、五輪のために一般生活が犠牲になることに対する倦厭(けんえん)感情が広がってはいるものの、安全・安心のためならやむを得ないという気持ちから、緊急事態宣言に対してもより強い私権制限を期待する声が強い。同様にヘイトスピーチに対しても、事前規制を含む表現禁止措置を求める声が少なくない。

 こうした流れは前述の立法や行政の動きと重なり合って、社会全体の空気感を作ってはいないか。あるいは政権党がより強力に、こうした世論を後押ししている面もある。しかもそれをさらに元気づかせる報道姿勢や情報流通環境も否定できない。
 ▽市民団体がTBS番組は偏向との全面意見広告を新聞掲載(15年11月)
 ▽自民党会議で沖縄の新聞つぶす発言(15年6月)
 ▽自民党が教員の政治的中立性調査(16年6月)
 ▽名護市安部のオスプレイ墜落で不時着との政府発表に報道も追随(16年12月)
 ▽地上波「ニュース女子」で沖縄ヘイト(17年1月)
 ▽コンビニの成人誌扱い中止の流れ(17年11月)
 ▽イージスアショア問題に触れた卒業式謝辞を大学側が削除(19年3月)
 ▽携帯各社が個人情報である人流分析データを政府に提供(20年4月)
 ▽街宣活動により神奈川県下で映画上映が中止、表現の不自由展が会場変更(21年6月)

 この3本の線が重なり、より大きな流れとなって「いま」を生んでいるわけだ。法や行政執行の本来の役割が、表現活動の封殺ではないと信じるならば、政府施策に異を唱えることを許さない現在の息苦しさや、その結果生まれる社会的分断を緩和することこそが、為政者のなすべきことのはずだ。いままさに起きていることは、その真逆ではなかろうか(年表は拙著『愚かな風』参照)。
 (専修大学教授・言論法)
 (第2土曜掲載)