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那覇商業高校(4)名優の原点は新入生歓迎の演劇 津嘉山正種さん、又吉静枝さん<セピア色の春―高校人国記>


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1964年の校舎全景(「那覇商百年史」より)

 玉城流いずみ会家元で国の重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者の又吉靜枝(77)は9期。県立芸術大学の教授として後身の指導にも尽くしてきた。

 1943年、那覇で生まれ、戦時中は大分へ疎開した。敗戦後、船で沖縄に引き揚げる時の逸話がある。

 「甲板で三線を弾く人がいて、それを聞いた私は踊り出したというんです。後に『この子は踊りを続ける運命だったんだね』と言われました」

 一時、那覇で暮らした後、糸満で小学校時代を送った。母の勧めで、7歳のころから具志清進舞踊研究所で学んだ。歌も好きで、美空ひばりがお気に入りだった。

 「地域のお祝いや豊年祭などで踊った。お土産にコーグヮーシーをもらって帰ると母が喜んでくれた。母の笑顔を見たくて踊りを続けた」

又吉 靜枝氏

 那覇に戻り、上山中学校に入学した。母が体調を崩し、生活は厳しくなったが、舞踊を断念したわけではなかった。那覇商業高に進学したのも「給料がもらえるようになったら舞踊を学べる」と考えたからだ。

 入学後、又吉が選んだのはダンス部。モダンダンスの指導者、山里陽子の指導を受けた。「すごく鍛えられた。後の舞踊の創作につながった」と語る。歌にも親しんだ。米歌手ナット・キング・コールの「キサス・キサス・キサス」を歌い、校内コンクールで入賞した。

 62年に卒業後、玉城節子に師事し、銀行などで働きながら芸を磨いた。「高校卒業後の苦しい時期、節子先生から舞踊の基礎を教えてもらった」と回想する。71年には又吉靜枝琉舞道場を開設した。

 沖縄県立芸大には創生期から関わってきた。「学生と同じ気持ちになって自分も勉強できた」という。琉球舞踊の原点を探求し、論文を発表した。「実演家は自分の実技を文字に書いて説明することが必要」という思いからだ。

 芸歴70年。今月23日の「慰霊の日」に記念公演「千年の祈り」を琉球新報ホールで予定している。「沖縄にとって大事な日です」と又吉。舞台で沖縄戦犠牲者を悼む鎮魂の舞「清ら百合」を演じる。

津嘉山 正種氏

 在校時に新築の体育館で又吉がダンスに励んでいた時、同じ場で演劇に熱中していた同級生がいた。俳優の津嘉山正種(77)である。

 那覇の出身。沖縄戦では石川の山中で米軍に捕らわれ、城前小学校に入学した。その後、壺屋小、久茂地小を経て那覇中学校で学んだ。「中学では吹奏楽部でクラリネットを吹いていました」

 5人きょうだいで男は津嘉山1人。「大学進学は中学であきらめていた。就職のことを考え、那覇商業に入った」と語る。

 那覇商業高に入学した津嘉山は「新入生歓迎の演劇を見て感動した」ことがきっかけで演劇部に入り活動した。JRC(青年赤十字)にも加入し、ボランティアに打ち込んだ。生徒会長にもなった。忘れられない活動がある。

 「女生徒の夏の制服がなかったので生徒会でデザインして制服を制定した。那覇商業は生徒の自主性を許す自由な校風だった」

 卒業後、琉球放送に入社した。当時の同僚に、演劇集団「創造」団員で戯曲「人類館」を書いた知念正真がいた。「知念とは机を並べて仕事をした。彼は仕事をしながら俳優として舞台に上がっていた」

 津嘉山も演劇への思いを募らせていた。64年の「創造」第2回公演「アンネの日記」に出演した。その後、本格的に演劇を学ぶために上京し、65年に青年座に入団。長い下積みの中で演技力を磨いた。87年の「NINAGAWA マクベス」(蜷川幸雄演出)が出世作となった。

 東京を拠点とする津嘉山は今、沖縄の近現代史を描く作品に取り組む。知念の「人類館」はその一つ。「人類館は沖縄の縮図だ。この10年、沖縄に対する差別は変わっていない」

 昨年12月、コロナ禍の厳しい環境の中で「瀬長亀次郎物語」(謝名元慶福原案)を南城市で演じた。「たとえ観客が1人でもやる。観客がいなければ、動画配信でもいい。ヤマトの人々にも見てほしい。沖縄がどれだけ犠牲を払っているのかを知ってほしい」

 熱っぽく語る津嘉山の言葉に沖縄で生まれ育った俳優の使命感がにじんだ。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)