軍事色濃い教育受ける 渡久地昇永さん 山の戦争(2)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の本部町役場。この場所に本部尋常高等小学校があった

 渡久地昇永さん(90)=本部町=が本部尋常高等小学校に入学したのは1938年のことです。学校は現在の本部町役場の場所にありました。

 《新しい服にカバン、帽子を与えられ、新しい香りのする教科書やノート、鉛筆などの学用品を持って、喜々として通学したことを覚えている。》

 規模の大きな学校で、「児童が1500人くらいいました」といいます。渡久地さんは級長を務めたこともありました。

 教科書で「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」と学んだ時代です。修身の教科書には日清戦争で戦死した軍人・木口小平をたたえた「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」という話が載っていました。軍事色の濃い教育を受けました。

 37年、盧溝橋事件が起き、日本は中国との戦争に突き進みます。38年には国家総動員法が制定されます。40年の「紀元二千六百年祭」を沖縄でも祝いました。この年、本部は村から町に昇格しました。

 《僕たち児童生徒は旗行列に参加して街の目抜き通りを歩きながら「紀元は二千六百年 ああ一億の胸はなる」と歌ったことを思い出す。》

 食料事情は貧しく、父を失った渡久地さん一家の耐乏生活が続きました。

 《子どもの弁当をこしらえて持たせる母の苦労は計り知れないものがあったろう。弁当の中身は皮のついたままのサツマイモに豚の油で炒めたみそ。それをバナナの葉に包み、タオルにくるんで持参した。》