師範生に軍歌習う 渡久地昇永さん 山の戦争(3)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
県立芸大の敷地に残る沖縄師範学校の門柱

 1941年12月、日本は太平洋戦争に突入します。渡久地昇永さん(90)=本部町=は本部国民学校4年生でした。学校教育は軍事色を一層強めます。

 《敵性語ということでカタカナ語は排斥された。「ドレミ」が「ハニホ」に言い換えられるなど奇妙なことが行われた。学校唱歌も「大政翼賛の歌」など軍歌一色になった。》

 43年、国民学校の6年に進級します。2学期ごろになり、沖縄師範学校の教育実習生が学校にやって来たことを覚えています。「1週間くらいの実習の間に、いろんな軍歌を習いました」と渡久地さんは語ります。

 《戦争たけなわの頃だっただけに、若い先生の卵たちは意気盛んだった。彼らが持ってきた新しい歌に「少国民進軍歌」があった。僕たちは音楽の時間にこの歌を教えられ、その軽快で勇壮なメロディーにすっかり魅せられ、毎日皆で大きな声で歌った。》

 戦闘で負傷した兵士の療養や社会復帰に対応する厚生省の外局・軍事保護院などが歌詞を作りました。一節に「お国のために傷ついた勇士」とあります。渡久地さんはこうつづります。

 《この歌の中にもあるように、戦局は次第に日本側に不利になった。多くの軍人が死傷し、「白木の箱」が頻繁に届くようになってきた。》