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那覇商業高校(5)オンリーワンの夢追う 伊波美智子さん、長崎佐世さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
伊波美智子氏

 沖縄キリスト教学院理事長の伊波美智子(75)は那覇商業高校の11期である。「在学中、舟木一夫さんの『高校三年生』や『修学旅行』がはやっていた。吉永小百合さんは同年生。親近感を覚える大スターです」と笑顔で語る。
 1945年、台湾の基隆で生まれ、47年に沖縄に引き揚げてきた。壺屋小学校、真和志中学校を経て61年に那覇商業高に進学した。就職を意識してのことだった。
 「うちは母子家庭だったので、大学進学は夢でしかなかった。働くならば商業学校がいいと考えた。女の子は大学に行かなくてもいいという風潮だった」
 入学時の自身のことを「私は人前でおしゃべりができなかった。ちょっと病弱で、どこにいるのか分からないような子だった」と振り返る。
 そんな伊波にとって那覇商業は刺激的な場だった。
 「全県から生徒が集まった。本島中北部、伊江島や久米島、石垣、竹富など離島の生徒も多かった。とても新鮮だった」
 新たな環境の中で学級委員を任された。JRC(青少年赤十字)の活動にも参加した。メンバーにひときわ目立つ先輩がいた。後に俳優となる津嘉山正種である。「津嘉山さんはJRCの会長で生徒会長、演劇部の部長もやっていました」
 他校にもJRCの組織があり、高校間の交流も盛んだった。病弱で目立たなかった生徒は活動的になっていった。「高校に行って初めて学校生活を楽しんだ。変わり始めたのはJRCに入ったからかもしれない」と伊波は語る。
 2年に進級し、進学を意識するようになった。「大学を目指す那覇、首里の生徒がうらやましかった」という。その頃から受験勉強に励み、現役で琉球大学に合格。琉球開発金融公社にも合格した。「生活も考えなければいけない。公社の給料はとてもよかった。普通に考えれば就職だ」
 ところが一人の教師が「君は大学に行きなさい」と背中を押してくれ、いったん就職した公社を辞め、琉大に進んだ。人生の岐路で伊波は夢を追い掛け、研究者の第一歩を踏み出した。

長崎佐世氏

 伊波が台湾から沖縄に戻って約7年後、宮古から台湾に渡る少女がいた。18期で、NS琉球バレエ団団長の長崎佐世(69)である。琉球民謡とバレエを融合した独自の舞「琉球クリエイティブ」を追求する。「私はオンリーワンでいたい」と常々語ってきた。
 1952年、伊良部島で生まれ、2歳で祖父母が事業を営んでいる台湾の宜蘭(ぎらん)県蘇澳(すおう)に渡った。家での会話は北京語。この地でバレエと台湾の民俗舞踊を学んだ。小学校5年で沖縄に戻り、那覇市の若狭小学校に編入した。
 9年間の台湾体験は長崎の人生に大きく影響した。
 「中学の頃まで発音が悪く、いじめられた。石を投げられ、けがをしたこともあった。台湾にいる時は琉球人だと言われ、沖縄に来たら台湾人だと言われた」。いじめから自分を守るため「目立たないようにしていた」という。
 那覇中学校を卒業し、68年に那覇商業に入学した。大学進学は考えていなかった。「早く母を楽にさせてあげたかった。大学は別世界。タイプや簿記を学び、いい会社に入ろうという希望をもって入学した」
 1年の時にダンス部に入ったが、2年になり南条幸子の下でバレエに専念するようになった。性格は中学の頃からあまり変わらなかった。「成績は良かったが、人見知りが激しく、臆病でしゃべれなかった」
 3年になり大学進学を意識するようになった。「先生に『佐世ちゃん、大学に行ったら。もったいない』と言われ、進学への思いが募った。恐る恐る母に相談したら許してくれた」
 卒業後、日本女子体育短期大学の舞踊科に進み、須藤武子が主宰する日本民俗舞踊研究所で学んだ。全国から集まった学生たちに支えられ、充実した学生生活を送った。「自由っていいな」と心底思った。内向きだった長崎は大学生活を送る中で変わった。
 帰郷後の1973年にバレエ教室を開設した。オンリーワンを目指す道のりを振り返り、長崎は語る。
 「この年になり、いろんな人に導かれ、つながっていることを実感するようになりました」
 (文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)