慰霊の日を前に、稲嶺恵一元知事(87)が20日までに、本紙のインタビューに戦争体験などを振り返り、首里城地下の日本軍第32軍司令部壕の保存・公開について語った。
1943年、バンコク勤務だった父・稲嶺一郎氏(元参議院議員)と引き揚げる途中、旅客船が米軍潜水艦の魚雷攻撃に遭い、乗っていた船は沈没。貨物船に救助された。当時、「とてもアメリカにはかなわない」という印象を抱いた。日本は南洋諸島で敗戦を重ね、連合国軍が太平洋の制海権を完全に握っていった。「もしあの時に正確に戦況を分析し、改めることのできる内閣が冷静な判断をしていたら、あそこで戦争をやめていますよ」と指摘した。
戦後も人々が戦争の傷跡に苦しむ様を目の当たりにした。祖母は沖縄戦でやんばるを逃げ惑い、栄養不良と精神的・肉体的過労によって身体が不自由になっていた。サラリーマン時代、広島で被爆の後遺症に苦しむ人が身近にいた。こうした体験が戦争のない平和な世界をつくりたいという思いの原動力となり、「沖縄平和賞」創設につながった。
一方で冷戦後も戦争や対立がなくならず、大国の狭間で緊張を強いられ続けるアジアの状況に「理想と現実は違う。平和を利用する人は多いが、平和ほど難しいものはない」と痛感している。
それでも沖縄から平和への思いを世界に広げていくことが大事だと強調する。「平和への思いを持った人が増える分だけ戦争や紛争は減っていく。32軍壕の保存・公開もそれに寄与すると期待している」
(中村万里子)