陣地構築に追われる 渡久地昇永さん 山の戦争(4)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
日本軍が陣地を築いた本部町の山地

 渡久地昇永さん(90)=本部町=は1944年、本部国民学校高等科に進級しました。その年から日本軍が駐屯し、生徒は陣地構築に動員されます。

 《僕たちの学校にも球部隊の兵隊さんが大勢入ってきて教室を明け渡した。そのため各部落の事務所や民家が仮教室に代わり、辛うじて授業は行われた。

 僕たち高等科生は毎日つるはしと弁当を持って日本軍の陣地構築に駆り出された。兵隊さんの指揮の下、ダイナマイトの穴や塹壕(ざんごう)掘りに明け暮れた。》

 その頃、米軍の偵察機が上空を飛行し、本部町大嘉陽の真部山で陣地を造っていた日本兵や生徒を慌てさせます。

 《どこからともなく飛行機の音が聞こえてきた。空を見上げると青い空に細長い白い雲の尾を引きながら銀色の機影らしきものが一機ゆっくりと高い空に見えてきた。》

 その後、「敵機が毒ガスをまいているから避難しろ」という指示が出ました。飛行機雲を毒ガスと勘違いしたのです。「日本の兵隊は飛行機雲を知らなかった」と渡久地さんは語ります。

 この年、渡久地さんは集団学童疎開で沖縄を離れる予定でした。ところが出発の日の朝に失神し、倒れてしまいました。母のかまどさんは「ご先祖さまのお引き回しに違いない」と言い、疎開を断りました。