近所の家が「慰安所」に 渡久地昇永さん 山の戦争(5)<読者と刻む沖縄戦>


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本部町伊野波の集落には朝鮮人もおり、「慰安所」も置かれた

 渡久地昇永さん(90)=本部町=が暮らしていた本部町伊野波に日本軍の駐屯がさらに増えます。多くの民家に兵士が暮らしました。渡久地さんの家もその一つ。1944年の夏以降、朝鮮から来た人々もいました。

 《一兵卒や下士官、将校、軍属など多彩であった。最も多人数が停留していたのは朝鮮から徴用された軍夫20人余であった。畳一枚の広さに大の男2人が寝ていた計算になる。》

 軍夫は厳しい環境に置かれていました。食料は足りず、わずかなご飯をめぐって軍夫同士の争いも起きました。日本軍は軍夫を命令で縛り、暴力を振るいました。

 《ある下士官が朝鮮人軍夫に自分の下腹部をさらけ出して毛ぞりをさせているのだ。僕は一瞬、目を背けてしまった。

 また、どういう命令違反があったのか、自分の銃剣の先で軍夫の耳を突き刺してせっかんする日本兵もいるではないか。軍夫は「アイゴー、アイゴー」と声を上げて泣いていた。》

 近所の家はまるごと日本軍の「慰安所」として接収されました。

 「慰安所には5、6人の朝鮮の女性がいました。日曜日になると日本の兵隊が並んでいました。私たちは中に入れない。木の間から中の様子をのぞいたことがあります。朝鮮の女性はかわいそうでした」

 朝鮮の人々が戦後どうなったのか分からないと渡久地さんは語ります。