自宅が「朝鮮人軍夫」宿舎に…強制労働を目の当たり、耳に残る「アリラン」・松田菊成さん<国策の果て>6


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
母が「朝鮮人軍夫」からもらった印鑑を手に、沖縄戦当時を振り返る松田菊成さん=17日、読谷村渡具知

 1945年4月1日、周辺も含めて6万人もの兵士が沖縄本島の地を踏み、米軍上陸の地として知られる読谷村渡具知。その上陸前、日本軍はこの地を拠点化していた。渡具知で生まれ育った松田菊成さん(85)=読谷村=は、日本軍に動員され、強制的に労働させられる「朝鮮人軍夫」の目の当たりにした。「『ゆくしあらに(嘘だろ)』と思うくらいだった。戦はならん」。小学生だった当時の記憶を呼び覚ました。

 比謝川河口に面し、天然の良港として知られた渡具知には1896年、鹿児島、沖縄、台湾を結ぶ海底電信線が陸揚げされた。1942年8月には日本軍の海底電信局守備隊が配備された。第32軍の駐屯が本格化した44年には、軍事物資が渡具知にも陸揚げされるようになり、集落内の字事務所や民家は軍の宿舎として使われた。海岸沿いには特攻艇の秘匿壕も掘られた。

 事故で父を亡くし、母と姉2人と暮らしていた松田さんの自宅は、朝鮮半島から連れてこられた「朝鮮人軍夫」の宿舎になった。軍夫が後にサーターヤー(黒糖製造所)に移動するまで、ふすまを隔てた隣の部屋に20人近くが寝泊まりした。軍夫は軍事物資の荷揚げ作業といった重労働に従事させられていた。松田さんは「家では寝るだけだ。炊事場から鍋を運びながら素手で飯を食べていたよ」と朝鮮の人々の様子を振り返った。

 軍夫のうち、「ハトヤマ」さんという班長と副班長は日本語を使えた。残りのほとんどが朝鮮語しか話せなかった。ある日、家から数十メートル先から泣き叫ぶ声が聞こえた。日本兵に殴られたとみられる軍夫が朝鮮語で叫んだ。「アイゴーチュッケッタ(もう終わりだ)」。松田さんの耳には軍夫の声が今も残る。

 戦況が悪化してくると、食糧などの物資を求める日本軍の要求も激しくなった。小学2年生だった松田さんも飛行機の燃料になる「チャンダカシー」(トウゴマ)の種子を集めた。そして米軍上陸が迫った45年2月、松田さんは2人の姉と国頭村与那に疎開した。

 母は家畜の世話のために一時残っていたが、米軍の上陸目前に渡具知を離れ、松田さんたちがいた与那で合流した。その時、母は「松田」の手彫りの印鑑を持っていた。それは、松田家で寝泊まりしていたハトヤマさんが家に生えていたゲッキツから彫り、贈ったものだった。戦後も母はこの印鑑を使い続けた。今は松田さんの手元にあり、きれいな印影が写る。

 渡具知に駐屯していた日本軍は南部に撤退し、米軍は無血上陸を果たした。その後、朝鮮人軍夫がどうなったのか分からない。

 「『アリラン、アリラン』って歌ってたよ。寂しかったんだろうね」。松田さんは耳に残る歌声を口ずさみながら、印鑑を握りしめた。
 (仲村良太)