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那覇商業高校(6)アルバイトとそろばん…たたきあげの誇り 嘉手納成達さん、太田守明さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1962年頃の中庭(「那覇商百年誌」より)

 2001年から12年まで沖縄海邦銀行の頭取を務めた嘉手納成達(76)は10期。「歴代の頭取にも那覇商業の出身がいます」

 1945年1月、大阪市で生まれ、3歳ごろ沖縄に引き揚げてきた。具志川で暮らした後、那覇市与儀に小さな家を構えた。

 「父が建てたのは掘っ立て小屋。周囲もそういう家ばかり。きょうだい4人で私が長男。終戦直後で貧しい生活をしていた」

 開南小学校、上山中学校で学び、60年に那覇商業に進んだ。嘉手納の家庭の事情を察した中学校の教師が勧めた。「明確な進路はなく那覇商なら勤めやすいと思った。大学進学は考えていなかった」

 那覇商には各地から生徒が集まった。「宮古、八重山、伊江島から入学してきた。離島出身の生徒は非常に優秀だった」と語る。

嘉手納 成達氏

 小遣いを稼ぐため、夏休みはアルバイトにいそしんだ。農連市場でスイカを売り、那覇港で港湾業務に汗を流した。「港の労務はわりと給料は良かった。服や靴を買った。まだ貧しい社会だった」

 63年、沖縄相互銀行(現沖縄海邦銀行)に入行した。特に金融の世界に興味があったわけではなかった。軍道1号線(現在の国道58号)沿いにある銀行本店を見て「うま、ましあらに」(ここ、いいんじゃない)と友人と語り合ったことを覚えている。「立派な建物を見て就職を決めた。私は銀行員のことをあまり知らなかった」

 新人行員として働く嘉手納は激動に巻き込まれる。「キャラウェイ旋風」だ。顧客の元帳まで琉球警察に押収され、銀行は大混乱となった。71年の「ドルショック」では通貨確認のため夜通し働いた。

 銀行を離れて9年。嘉手納は「コンピューターのなかった時代、商業学校の卒業生は銀行のテクノクラートだった。銀行も僕らを人材として扱ってくれた」と語る。そして言葉を継ぐ。

太田 守明氏

 「那覇商業を卒業して良かった。学校で簿記とそろばんを学び、銀行では実学を学んだ。実学社会で働くため懸命だった」

 そう語る嘉手納の言葉に、たたき上げの誇りがにじむ。

 りゅうせき社長、りゅうせきネットワーク会議議長を務めた太田守明(75)は12期。「自由な校風、生徒は伸び伸びしていた」

 1946年5月、本部町伊豆味で生まれ、コザで育った。「12人の大家族。食べるのに精いっぱいだった。長男、次男、長女は中学を卒業して、すぐ就職した」

 家計を助けるため、小学校の頃、新聞配達をやった。「配達の途中に犬に襲われてけがをした。今でも犬は苦手だ」という。

 美里小学校、安慶田小学校、コザ中学校で学び、「就職のため」に62年、那覇商業に入学した。生活苦から大学進学をあきらめていた。

 もう一つ、那覇商業を選んだ理由があった。60年に完成した体育館である。太田はコザ中でバスケットボール部に所属していた。「バスケ部は体育館で練習できるので強かった」。レギュラーではなかったが、静岡県で開催されたインターハイに派遣された。

 コザから学校へ通った。生活のため、高校3年間アルバイトに励んだ。「授業料とバス賃は親が出すけど、それだけでは足りない。山形屋で盆暮れの中元、お歳暮を配達するアルバイトをした。自転車で那覇の隅々まで回った」

 同級生の中には琉球大学や本土の私立大学を目指す者もいた。進学に熱心な教師もいたが、太田は「自分は経済的に大学へ行けない。就職する」と教師に伝えていた。それでも、進学の夢は残った。「お金があれば大学に行きたい」

 琉球石油(現りゅうせき)への就職を決めたのは募集の張り紙がきっかけだった。入社後、大卒との待遇の違いを知り、沖縄大学の夜間部で4年学んだ。創業者で参院議員となる稲嶺一郎は「勉強する若者に寛容だった」という。

 「稲嶺さんは事業を興すことや人材育成に情熱を持っていた。私は経営の基礎を那覇商業で学び、創業者と稲嶺恵一さんに薫陶を受け経営学を学んだ」

 りゅうせきを離れた後も太田は人材育成に関する団体の役職を続けている。「私が学んだ那覇商業、人材育成に頑張った会社のことを考えてのことです」と太田は語る。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)