軍医が負傷者を射殺 三角山の激戦、周囲は遺体・仲泊栄吉さん<国策の果て>7


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「学校では『天皇陛下のために尽くしなさい』と教えられた」と語る仲泊栄吉さん=16日、東村有銘

 1945年2月下旬、東村有銘の仲泊栄吉さん(91)は15歳で、日本軍が本島北部の少年らを集め結成した遊撃隊「護郷隊」に召集された。当時の役場に電話で呼び出され、仲間と共に徒歩で恩納村へ向かった。3月1日、安富祖国民学校で入隊式があり、第二護郷隊の第三中隊第一小隊に配属された。

 前年卒業した国民学校では「天皇陛下のために尽くしなさい」と教え込まれた。卒業後は伊江島飛行場や読谷飛行場の建設に徴用される日々。「護郷隊に入ることは怖いというより当たり前、国のために頑張るぞという気持ちだった」

 「名護市史本編3 名護・やんばるの沖縄戦」などによると、護郷隊は「故郷は自らの手で守る」というスローガンの下に結成。第二護郷隊は東村、国頭村、大宜味村の少年に中南部の少年を一部加えた388人。陸軍中野学校出身の岩波寿中尉が大隊長だった。同校出身者の任務は第32軍の壊滅後も遊撃戦を続け、大本営へ戦況を伝えることであり、沖縄の少年たちはその巻き添えとなった。

 当初は名護以北での戦いを想定した第二護郷隊だが、第32軍の方針転換により、恩納岳を中心に北は久志岳南、南は読谷村や北谷村の周辺での遊撃戦を担うことになった。

 第二護郷隊は上陸地点近くの石川岳周辺に配置された。米軍を背後から攻撃する計画だった。しかし、4月1日の米軍上陸後は猛攻撃にさらされ、恩納岳への撤退を余儀なくされた。途中、米軍の侵攻を防ぐために石川や仲泊などの橋を次々に爆破した。米軍の銃弾が頭の上をヒュンヒュン飛んだ。「怖いとかは考えない。弾に当たらないようにするので必死よ」

 恩納岳陣地に戻った仲泊さんらはやがて、隣接する三角山に侵攻した米軍と激しい戦闘に突入した。三角山の頂上にいる米軍に対して、仲泊さんら東村出身の第三中隊が突撃した。東側の絶壁を避けて西側から斜面を上り、米軍に向かって機銃掃射した。反撃はすさまじく、隊員らはバタバタと倒れた。周囲は遺体の臭いに満ちた。

 仲泊さんは負傷者を野戦病院に運ぶ係だった。病院から小隊に戻る途中、負傷した知り合いの隊員が軍医に頭を撃たれて射殺されるところを目撃した。「けが人はもう戦えないから、ということだろう。他の負傷者も同じように殺されたんじゃないか」

 壊滅状態となった第二護郷隊は6月2日、北部3村へと撤退を始めた。3週間歩いて仲泊さんの古里・有銘に到着し、そこで解散した。「援軍が上陸したら、また一緒に頑張ろう」と約束した。本気だった。

 第二護郷隊の少年兵のうち、69人が戦死した。仲泊さんは今も時々、護郷隊でのことを思い出す。「当時は当たり前だったが、今思うとひどい話だ。それでも自分は今、元気に生きている。死んだ人を思うと何とも言えない。戦争は人殺し。やってはいけない」

  (岩切美穂) (おわり)