続く砲撃、不自由な生活 渡久地昇永さん 山の戦争(8)<読者と刻む沖縄戦>


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本部町・八重岳にある国頭支隊の本部壕と野戦病院跡

 1945年3月末に艦砲射撃が始まって以降、渡久地昇永さん(90)=本部町=は母と妹、2人の弟の家族5人で本部町伊豆味と並里の境にある防空壕で避難生活を送ります。伯母家族2人も一緒でした。

 《毎日空から艦載機による爆撃、海からは相変わらずの砲撃が続き、日本軍が立てこもる八重岳や真部山方面のみならず、至る所に着弾した。昼間は一歩も出られなくなり、暗くじめじめした壕内での不自由な生活が続いた。》

 八重岳や真部山に陣地を構えていたのは支隊長の宇土武彦率いる独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)でした。

 食事の準備にも苦労しました。

 《食事の支度は煙が少ない枯れ竹を探してきて、1日に1回、砲撃の合間をぬって昼間に壕外で行われた。水は近くの谷川からくんだ。米は木の籾(もみ)すり器で脱穀した玄米を一升びんに入れ、木の枝で搗(つ)いて白米にし、野草を摘んできて雑炊にして食べたのである。》

 艦砲射撃の開始から約2週間後、渡久地さんらが避難していた防空壕の周辺に米軍が侵攻します。渡久地さんは装甲車やトラックを従えた米兵を目の当たりにしました。家族は伯母一家と別れて新たな避難場所を探します。