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那覇商業高校(7)人見知りも、家業手伝いながらも…空手家に 東恩納盛男さん、外間哲弘さん<セピア色の春―高校人国記>


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1950年代の朝礼風景(「那覇商百年誌」より)

 経済界だけでなく琉球舞踊など沖縄の伝統文化の世界に人材を輩出してきた那覇商業高校。空手の世界にも卒業生がいる。

 国際沖縄剛柔流空手道連盟最高師範で県指定無形文化財保持者の東恩納盛男(82)は5期。海外での指導歴は53年。沖縄空手界を代表する国際派だ。

東恩納 盛男氏

 1938年、那覇市壺屋で生まれ、壺屋小学校で学んだ。「精神的に弱く、山学校ばかりだった」と少年期を振り返る。「山学校」といっても遊ぶ場所は海。

 「校門でUターンして波上に泳ぎに行った。学校では人と会うのも話すのも嫌いだった。方言ばかり使うので罰を受けたこともあった」

 見かねた父は空手演武の会場に息子を連れ出す。父は警察官で空手を学んでいた。「空手はいいなと思った」。気弱な少年の心に響くものがあった。那覇中学校に通っている頃は「ミートゥジ」(夫婦岩)の近くで蹴りや突きをしていた。空手への関心が募っていった。

 1955年、那覇商業高に入学。10月になり空手部に入った。入学から半年遅れたのは「人見知りする性格」のためだった。3期上の島袋常隆から空手を学んだ。さらに島袋の紹介で剛柔流の開祖・宮城長順の高弟である宮城安一の指導を受けた。空手のおかげで学校嫌いの性格が変わった。「稽古のため学校は毎日行った」

 卒業後、当時の金融機関の一つ「みやこ無尽」で1年ほど働いた後、拓殖大学へ進んだ。在学中、県出身者が代々木で開いていた空手道場を任されるようになる。都内の大学でも指導した。腕立て伏せや腹筋運動の基礎鍛錬で弟子を鍛え上げた。

 初の海外指導は68年。帰郷後、那覇に構えた道場には各国から空手家が訪れるようになった。空手を通じた国際交流に力を注いできた。

 今、沖縄伝統空手のユネスコ無形文化遺産登録を目指す運動に取り組んでいる。「人と目を合わせるのが嫌だったが、空手をやることで直った。空手のおかげ。空手に感謝だよ」と東恩納は穏やかに語る。

外間 哲弘氏

 沖縄剛柔流拳志會空手道・古武道総本部を率いる外間哲弘(76)は11期。西原町内の道場に空手博物館を併設している。

 1944年、疎開先の台湾・高雄で生まれ、4歳頃、沖縄に引き揚げた。具志川の川田で暮らし、母方の祖父がいる首里を経て、那覇の与儀に落ち着いた。川田にいる時、戦地から父が復員した。「それまで父の顔は知らなかった。一緒にドラム缶のお風呂に入った記憶がある」

 きょうだいは6人。生活は苦しかった。父は事務職をしながら軍隊時代に学んだそろばんを生かし、塾を開いていた。「今の神原小学校の辺りに残っていたカンポー穴(艦砲弾穴)に水がたまってカエルが鳴いていた。朝、父とカエルを捕って、家族で食べた」

 空手を学び始めたのは首里にいた6歳の頃。小林流の開祖・知花朝信ら沖縄伝統空手の担い手から学んでいた祖父、徳山盛健の手ほどきを受けた。寄宮中学校ではテニス部と剣道部に入り、首里の祖父から空手の指導を受けた。

 そろばん塾を営む父を手伝うため那覇商業高を選んだ。空手部にも所属し、稽古に打ち込んだ。入部時、手荒い歓迎会を受けた。

 「シンメーナービにぜんざいを作って歓迎してくれた。鍋の中には瓶のふたや押しピンも入っていた。今なら大変なことになる」

 与儀にある剛柔流の比嘉世幸の道場にも通った。ここで古武道の又吉眞豊とも出会い、技を学んだ。外間は忙しい高校生活を送った。「授業が終わって空手部で稽古。その後、コッペパンを食べながら与儀の道場へ。家に戻ったら、そろばん塾で父を手伝った」

 卒業後、奨学金を得て千葉商科大学へ入学した。空手部に所属し、学内の県人会でも活動した。台風や洪水被害に遭った故郷のために救援物資を送ったこともある。帰郷し、高校教師となった後も比嘉や又吉に師事した。78年には自身の道場を開いた。

 外間には琉球史を教えるカルチャースクールの講師、書家の顔もある。本部町八重岳にある伝統空手・上地流の開祖、上地完文の銅像の碑文は外間が書いた。那覇商が生んだ多芸な空手家だ。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)