八重岳に避難せず命拾い 渡久地昇永さん 山の戦争(9)<読者と刻む沖縄戦>


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本部町伊野波の北東部にある内堂の一帯

 本部半島に進攻した米軍を避け、山奥に逃れた渡久地昇永さん(90)=本部町=ら家族5人は、照明弾に照らされながら山中をさまよい、伊野波の北東部の内堂(うっちんどう)にたどり着きます。

 内堂にある民家には、伯父の渡久地甚助さん一家が避難していました。翌朝、さらに山頂付近に移動し、家族が避難できる石灰岩の割れ目を見つけました。

 《一家が身を隠すには格好の場所と思われた。僕たちは岩の木立の中に木の枝や茅(かや)などで天を覆い、飛行機から直接発見されないように天蓋(てんがい)を造った。》

 その日午後も米軍の猛爆撃に遭いました。米軍の攻撃が終わった後、甚助さんがやって来ました。男の子の命を守るために昇永さんと共に日本軍のいる八重岳へ逃げるというのです。

 日本軍のいる八重岳が安全だと考えた甚助さんは「このままでは一族の全滅は免れない。どうしても誰か男の子一人は戦火をくぐり抜けさせ、子孫を残さなければならない」と言い、母のかまどさんを説得しました。「死なばもろとも」と申し出を拒んだかまどさんも熱心な説得に折れてしまいます。

 ところが出発する直前、昇永さんは突然倒れてしまい、甚助さんの計画は頓挫しました。

 「伯父は日本軍が勝つと信じていたが、八重岳は米軍の集中攻撃を受けた。行っていたら僕は助からなかった」と渡久地さんは語ります。