米兵に投降、収容所へ 渡久地昇永さん 山の戦争(10)<読者と刻む沖縄戦>


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内堂から伊野波の集落へ向かう道

 伯父との避難計画が流れた後、渡久地昇永さん(90)=本部町=は母や妹、2人の弟と共に内堂(うっちんどう)の別の壕へ移動します。既に多くの避難民がおり、ここでも激しい砲撃を受けました。

 《全く生きた心地がしない。人々は皆、家族ごとに抱き合ってうずくまり、もはやこれまでと覚悟を決めているようだった。夕方5時頃まで間断なく続いた砲撃はやっと収まった。どの家族も涙を流して喜び合った。》

 壕の周辺には砲弾による無数の穴がありました。渡久地さんらは「どうせ死ぬなら祖先代々の家の近くで」と考え、母方の実家に向かって山を下ります。谷間には住民の避難壕があり、親類ら伊野波の住民が集まっていました。渡久地さんらは親類の壕に隠れました。

 翌朝、小銃を持った4、5人の米兵が老人を伴ってやってきます。老人は渡久地さんの隣家の人で「米兵は住民には危害を加えないから、みんなで手を挙げて外に出るように」と呼び掛けました。それでも住民が外に出るのをためらっていると、老人は「米兵は壕内に手榴弾を投げ込むと言っている」と言い、外に出るよう強く促しました。

 渡久地さんらは恐る恐る壕を出ました。米兵から食料を与えられ、歩いて渡久地の民間人収容所に移動しました。約20日間の避難生活が終わりました。