飛行場建設で父動員 山内輝信さん 山の戦争(12)<読者と刻む沖縄戦>


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山内 輝信さん

 恩納村仲泊の山内輝信さん(84)から戦争体験記が届きました。防衛隊として戦場に動員された父の体験が記されています。山内さん自身は米軍上陸時に戦火を逃れ、恩納村の山中にあるガマに避難しました。

 山内さんは1937年に生まれ、恩納村仲泊で両親と祖父、きょうだい6人で暮らしていました。父の明信さんは日本軍の伊江島飛行場の構築に動員されます。伊江島から戻った後も防衛隊として再び動員されます。明信さんは1903年生まれ。動員の時には既に40歳になっていました。

 《父は明治生まれで、実親の弟の養子であった。父は伊江島の飛行場に動員されていた。その後、家族8人を残して防衛隊に入隊した。》

 父がいなくなり、家族は心細い思いをしました。「おじいさんと母が家族の面倒を見るという感じでした。身近にいた父が急にいなくなり、寂しいという気持ちが強かったですね」と輝信さんは語ります。

 輝信さんは仲泊にあった山田国民学校の分教場に入学します。学校では「空襲警報聞こえてきたら」という歌詞で始まる「防空壕の唄」を習いました。各家庭では米軍の空襲に備え、防空壕を造るようになりました。仲泊の住民は戦争が近づいていることを感じていました。