勇崎哲史さんを悼む 大神島の人々に愛された写真家(ライター・下地恵子)


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沖縄戦の戦争遺跡18カ所でセミの羽化する様子を撮影した写真展を開催した勇崎哲史さん=2020年9月4日、宜野湾市真栄原のピンナップ・ギャラリー・スペース

 出会ったのは約25年前。何のきっかけだったかは忘れた。これまでどれくらい一緒に大神島に行ったんだろうか…。勇崎さんが初めて宮古島に来たのは復帰前の1971年。那覇空港の掲示板の「宮古」という文字のシンメトリーの漢字に惹(ひ)かれて、だという。それが大神島との出会いの始まり。

 あれから50年。幾度も大神島に通い正月の家族写真を撮影し1992年に全23世帯(当時)の家族写真を「大神島・記憶の家族」として出版した。以前の大神島は「写真を撮られる事」はあまりいい事ではないという雰囲気もあった中で、ひとりのおじいが家々を回り説得したおかげで全家族の写真は撮影できたという。

 撮影を元旦にしたのは「子どもたちが島に帰ってきて家族全員がそろうから」。高校もない島では中学(今はない)を卒業すると島を出てその後に戻る事はほとんどないので、みんながそろう元旦がいい。昔は家に写真がなく、お葬式の遺影の写真を勇崎さんが撮った写真にしている家もあった。どの家にも写真集があり、愛された写真家だった。

 以前は今のようなフェリーもなく桟橋も整備されておらず小さな船だった。数日の滞在のあと、帰る時はみんなが桟橋まで来て船が見えなくなるまで手を振っているので、帰りはいつも「寂しいよね」とポツンと一言。がんが見つかった時「50年目の家族写真を撮影する」と言っていたし、写真展もやりたいから、とプランを練っていた。

 99年に宮古島で初めて開いた写真展は総合体育館という意外な場所で、しかも泡盛の空き瓶に写真を立てかけるという何とも奇想天外な方法に私たちは驚き喜び楽しんだ。それなのにとうとう旅立ってしまった。私への最後の伝言は「あとは石川竜一君(写真家)に託すのでよろしく」だった。

 勇崎さんとの出会いがなければ私が大神島の聞き取り調査をする事もできなかったと思う。

 さよならは言わないって言ってたから言わない。心からの感謝を。(ライター)