那覇商業高校を卒業し、県経済の牽引(けんいん)役を果たした人は多い。その中に5期で県経営者協会元会長の知念栄治(82)がいる。
1939年、本部町の生まれ。那覇商業から法政大学に進学し、62年に琉球石油(現りゅうせき)に入社した。創業者の稲嶺一郎から経営哲学を学んだ。93年、りゅうせき社長に就任。2006年から県経営者協会会長を2期6年務めた。
りゅうせき副社長から07年に副知事となった安里カツ子は13期である。働く女性のリーダーとして注目を集め、男女共同参画の推進に向けて行動した。
政治の道を歩んだのは10期で元県議の具志孝助(76)。那覇市議、県議で通算39年の議員生活を送った。2008年には自民党県連会長となった。
1944年9月、当時の小禄村高良で生まれた。陸軍の兵士だった父は、生まれたばかりの息子を一目見て「良かったね」と妻に声を掛け、部隊に戻った。
「私が父と会ったのはこの1回だけ。島尻で戦死したという。遺骨もない」
土地を米軍に接収された住民が集まり、にぎやかな街となった高良で育った。小禄中学校では陸上競技で活躍。60年に那覇商業へ進んだのも陸上部にいる先輩の誘いがあったからだ。入学前に陸上部の一員として合宿に参加した。
完成間もない体育館で入学式を迎えた。「経済界に進出し、社会で活躍している先輩たちの協力で体育館を造った」という宮島長純校長のあいさつを覚えている。「立派な先輩方が社会に貢献していることを伝えたかったんでしょう」と具志は語る。
「高校3年間、部活漬けだった」と振り返る。炎天下、波上に近い埋め立て地で練習した。最後は海に飛び込み、体を冷やした。
卒業後、専修大学に進学。帰郷後は郵便貯金住宅等事業協会に籍を置きながら青年活動に打ち込んだ。「地域のために尽くすのが若者の役目」という考えからだ。
力を入れたのが米軍基地によって封鎖されていた小禄地区の幹線道路の開放だった。「開放すれば小禄の発展は約束される」と呼び掛け、住民大会を開催した。具志は地域の青年リーダーとなった。
1972年5月15日。東京で開催された復帰記念式典に、具志は沖縄青年代表として決意表明した。もう一人の代表と共に「返還協定は必ずしも満足しうるものではないが、残された問題については両国政府が逐次解決していくものと期待する」と述べた。
77年、地域の声を受け那覇市議に。92年には県議に転じた。理想と現実のバランスを見据え、政治の世界で行動してきた。
那覇市議会議長を務めた亀島賢優は同じ10期。久米島町の出身。専修大学卒業後、兄と共にパン製造の家業を継ぎ、販売を拡大した。1985年、市議に初当選した。
元琉球放送のアナウンサーで現在フリーで活動する垣花章(74)は12期。放送人として沖縄の今を見つめ、発信してきた。
1946年、宮古島市で生まれ、就学時にコザに転居した。その後は那覇で育ち、壺屋小学校や前島小学校で学んだ。そろばんに励み、教科書の朗読が得意という児童だった。
59年、那覇中学校1年の時、沖縄でテレビ放送が始まった。国際通りでプロレス観戦の群に加わった。兄が作ったラジオで歌番組を聞いた。「その頃からアナウンサーになりたいと周囲に話していた」と語る。
62年、那覇商業に入学。銀行に勤めることを考えたが、自身の夢も温めていた。「アナウンサーになるには大学に行かなければならないと思い、1年の頃から塾に通っていた」
高校3年の時に見た東京オリンピックの実況中継が心に残っている。「開幕式や女子バレーボールの中継が忘れられない。午後7時のニュースも好きだった。共通語ってきれいだと感じた」
3年間、卓球部に所属した。演劇部にも関わり、舞台に立ったこともある。
卒業後、同志社大学に進学。アナウンサーを目指し、新聞学を専攻した。学内で米統治下にある沖縄の現状について学び、復帰の可能性を論じた。「復帰はできないかもしれない。しかし、復帰を成し遂げなければならない」という思いに駆られた。
大学には5年通って70年に卒業。琉球放送の試験を受け、合格から3日後、マイクの前に立った。「できないかもしれない」と思っていた復帰を巡るめまぐるしい動きを伝えるニュースを読んだ。「信じられなかった」という。
90年代、報道の現場にも身を置き、福祉・教育問題を取材した。マイクに向かって50年余。多くの人との出会いがあった。「僕は人という財産をつくることができた」と垣花は語る。
(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)