自然壕チンバタキに避難 山内輝信さん 山の戦争(14)<読者と刻む沖縄戦>


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恩納村の仲泊遺跡。この奥に自然壕チンバタキがある

 山内輝信さん(84)=恩納村=の父、明信さんは飛行場建設に従事していた伊江島から戻ったものの、10・10空襲の前に再び防衛隊として動員されました。1945年に入り、恩納村も米軍の空襲にさらされます。

 輝信さんは母ツルさんと祖父、きょうだいと共に避難生活を送ることになります。「米軍の攻撃が日増しに増えていきました。近所の人と一緒に、日本軍が掘った近くの壕に避難しました」と輝信さんは話します。

 その後、読谷村座喜味に住んでいた親類が仲泊にやってきました。「米軍が上陸したのでやんばるに行く。年老いたおばあさんは付いてこられなかった」ということでした。戦後、おばあさんの行方は分からなくなってしまったという話を聞きます。

 読谷に上陸した米軍はこのまま北上すると考えたツルさんは新たな避難先への移動を決めます。「母は『どうせ死ぬんだったら、部落の人たちと一緒に死にたい』と考え、チンバタキという自然壕に行きました」

 チンバタキは仲泊遺跡の南東約1キロの場所にあります。仲泊の住民のほとんどが避難していました。「150人ぐらいが収容できる大きな壕でした。そこには日本兵はいませんでした」

 壕の中で輝信さん家族ら仲泊住民は息を潜めていました。