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山内輝信さん(84)=恩納村=ら恩納村仲泊の住民が避難していた自然壕チンバタキも安全ではありませんでした。
《1945年4月、読谷の海岸に上陸した米軍は、本島の南と北に向かって進軍していった。日米両軍は地上戦を南北で展開していった。》
壕の中で弟が泣き出すことがありました。米軍機が上空から偵察するとき、見つかるのを恐れた母のツルさんは弟の口をタオルでふさぎました。
食料も不足していました。一緒に避難していた住民から分けてもらったおにぎりの味が忘れられません。
4月上旬、チンバタキの周辺に米軍がやってきます。「上陸からしばらくして4、5人の米兵が壕の入り口にやって来て、子どもたちにお菓子をくれるんですね。壕の中で年配の人たちが『壕を出る以外にない』と話し合っていたようです」と山内さんは話します。
仲泊の住民はチンバタキを出て集落に戻ります。山内さんの家は荒れ果てていました。しばらく山田国民学校の分教場で過ごした後、トラックで石川の収容地区に向かいます。
チンバタキから分教場に向かう住民を米軍が撮った写真が残されています。撮影日は45年4月8日。以前は読谷村楚辺の住民を撮った写真と見られていました。着物を着た山内さんの姿も写っています。