[日曜の風・吉永みち子氏]新語に隠し私権制限 ジンリュー


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吉永みち子 作家

 安倍政権の時には「ご飯論法」という、国会でわざと的を外して答えない答弁が横行していたが、菅政権になったら「ヤギさん答弁」と言われ出した。どっちも質問に真正面から答えないケシカラン態度だが、先日、新聞の読者投稿欄に、ヤギさんに失礼だというような意見が載っていてなるほどと思った。

 黒ヤギさんは白ヤギさんからのお手紙を読まないで食べちゃった。でも、さっきの手紙のご用事なあに? と手紙を書く。食べちゃうのは紙を見ると食べたくなるヤギの習性で悪気はない。しかも、もう一度手紙の内容を知ろうと努力する誠実さもある。菅さん答弁にはそれがない。

 「ステージ4の感染爆発状態でもオリ・パラは開催されるのか」という問いに対する答えは、「する」か「しない」かのどっちかなのは小学生でも分かる。それなのに菅さん答弁は「選手や関係者の感染対策をしっかりやって安心安全の…」となる。国語のテストなら間違いなくバツの答弁が国会でまかり通っている。

 日本語が分からないというより、日本語を巧みに操る。さらに言葉も作っちゃう。最近、よく聞く人流という言葉。ジンリューと初めて耳にした時は、ポカンとしてしまった。「人流」という漢字を見て、あっ、人の流れのことかと理解したが、そんな言葉、長く生きてるけど聞いたことも使ったこともなかった。

 「緊急事態宣言中なのに人流が減っていません」などと使われる。減らない人流は、まるで素直でない国民のせいみたい。「人流を厳しく制限しなければならない」なんて平気で言う。

 人の流れ、人出と言えばいいのに! と思う。そうすれば行動の自由が制限されるんだと伝わる。私権が制限されているという実感も重く感じ取れる。そのうち、みんなも「人流、減らないっすよね」なんて軽やかに使い出す。

 ジンリューという言葉とともに、私権を制限されることもいつしか当たり前のように受け入れられていくのではないか…考えすぎですかね? でも、私たちの大事な「個」を崩すきっかけはけっこうささいなことの中にまぎれてやってくるものだから。

(作家)