父がハワイで捕虜に、兄は事故死 山内輝信さん 山の戦争(16)<読者と刻む沖縄戦>


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戦後の出発点となる収容地区があった石川

 自然壕チンバタキを出て、米軍に捕らわれた山内輝信さん(84)=恩納村=ら仲泊の住民はトラックで石川の収容地区へ運ばれます。住民は生命の危機から脱しました。中南部ではまだ戦闘が続いており、多くの住民が犠牲になりました。

 《米軍は大量の物量で日本軍を南部に追い詰めていった。民間人を巻き込んだ地上戦は多くの犠牲者を生んだ。》

 収容地区周辺の山地には日本兵が立てこもっていました。「石川岳には日本軍の敗残兵がいて、食料を探しに収容所に来ていました。米軍に撃たれたのか、日本兵の遺体が放置されていたこともありました。僕らは遠巻きに見ていました」

 仲泊に戻った頃、防衛隊に動員された父の明信さんが米軍の捕虜となってハワイにいることを知らされます。それまで明信さんの安否は分からないままでした。「先にハワイから恩納村に戻った人が父のことを知らせてくれました。『ハワイで元気でいると家族に伝えてくれ』と伝言していたそうです」

 明信さんは46年末に帰郷しました。輝信さんは小学校3年生になっていました。幼い頃に明信さんと別れた弟は「知らない人がいる」と驚いたそうです。

 つらい出来事もありました。収容地区を出て運送業に従事していた兄が事故で亡くなったのです。戦禍を生き延びた兄の死を家族は嘆き悲しみました。