追悼・勇崎哲史さん 写真の楽しみ方伝える (平敷七海・「平良兼七ギャラリー」代表)


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
勇崎哲史さん

 写真家の勇崎哲史さんと初めてきちんと話したのは、私が写真家の父・平敷兼七の名前を冠した「平敷兼七ギャラリー」を浦添市城間にオープンした時期だった。勇崎さんと父は親友だったが、私自身はギャラリーを開く前までは勇崎さんに何度かあいさつをした程度で、2009年に亡くなった父から直接、勇崎さんの話を聞いたことはなかった。以前、写真雑誌「LP」を読んだ際に、勇崎さんが父に書いてくれた追悼文を見つけた。そこには勇崎さんと父の作品による二人展を開こうと話し合っていたという約束も書かれていた。二人にそんな約束があったんだと知り、もし勇崎さんにお会いする機会があれば聞いてみたいと思っていた頃に、勇崎さんがギャラリーにいらっしゃって「平敷ギャラリー開店おめでとう」と言ってくれた。

 その時に二人の約束の話を詳しく聞くことができた。宮古島の「夏ブーイ」という祭祀へ一緒に行き、二人で写真を撮ったことや、沖縄を知らない勇崎さんに父がいろいろと教えてくれたことなども話していた。

 二人の出会いは、東京綜合写真専門学校の講師だった恩師・中嶋興先生の映像作品を手伝うため、勇崎さんが沖縄入りしたことがきっかけだ。当時は米統治下で、平敷が勇崎さんの身元引受人となったそうだ。勇崎さんは父について「ウチナーンチュの最初の親友」だったと話してくれた。

 ギャラリーをオープンした当初、写真の世界は、私にとって知らないことばかり。展示会を企画した経験もなかった。それでも私は、とにかく何か展示会を開きたい思い、勇崎さんに父との二人展を依頼した。

 後日、ギャラリー活性化のために二人展シリーズという3年間の長期にわたる企画案を勇崎さんに提案していただいた。私はありがたいと思い、すぐに開催に向けて協力をお願いした。私は写真については無知で、二人展を準備し開催していく中で勇崎さんと意見の食い違いもあった。しかし、今ではそれは良い思い出になった。

 無事に3年間にわたる二人展のシリーズを実現し、ギャラリーを継続できているのは、勇崎さんとサポートメンバー「フォト2」の支援があったからだ。勇崎さんの頭の中はすごい。写真を見ただけで、その中にある情報をすぐに察知して教えてくれる。写真の楽しみ方を伝えてくれて、人が持つ個性も引き出してくれる。父・平敷兼七の遺品に勇崎さんとの手紙や、勇崎さんの地元、北海道の写真甲子園のビデオなどがある。互いに状況を報告しあったり、写真の世界を語り合ったりしたやりとりが残っている。私が子どもの頃から、平敷の暗室の壁には勇崎さんの写真がずっと張ってあった記憶がある。大好きな友と恩師の写真が飾られている意味がようやく私には分かった。

 私の本業は美容師。勇崎さんが入院する前に、自宅へ行き、髪を切ったのが最後となってしまった…。

 勇崎さんとの出会いによって、写真の知識や写真から広がる貴重な経験をさせていただいたことを感謝している。勇崎さん、本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りします。天国で父と勇崎さんの二人で思う存分、写真談議をしていることだろうと思う。
 (「平敷兼七ギャラリー」代表)
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 写真家の勇崎哲史さんは1日に死去した。71歳。