ダバオから伊豆味に引き揚げ 照屋次央さん 山の戦争(18)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
照屋次央さん

 浦添市大平の照屋次央(つぐひさ)さん(85)から沖縄戦体験記が届きました。激しい地上戦の最中、本部町の山をさまよいました。日本軍の残虐行為も目の当たりにしました。照屋さんの父、忠次郎さんも「沖縄県史」の沖縄戦記録に証言を残しています。

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 照屋次央さんは1935年7月、フィリピンのダバオで生まれました。

 父の忠次郎さんはダバオに渡り、麻を栽培していました。妻のナヘさんを呼び寄せ、次央さんが生まれました。

 家族は41年、19年間のダバオでの生活を切り上げ、伊豆味に引き揚げます。伊豆味国民学校(現在の伊豆味小中学校)の近くで暮らしました。沖縄戦当時、次央さんには7人のきょうだいがいました。

 次央さんは伊豆味国民学校に通い、忠次郎さんは町役場で働きます。「父は役場で炭焼きの仕事をしていました」と次央さんは語ります。

 44年、伊豆味に日本軍が駐屯しました。独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊)です。宇土武彦支隊長の名から「宇土部隊」と呼ばれています。本部は伊豆味国民学校に置かれました。「学校に宇土部隊が入ったので、われわれは公民館で勉強していました」

 宇土部隊は「秘密戦」を展開したことや、敗残兵と住民の間でさまざまな軋れきを生んだことで知られています。

 忠次郎さんは宇土部隊の陣地構築のための資材供出に当たります。伊豆味の人々も壕掘り作業などに駆り出されました。