照屋次央(つぐひさ)さん(85)=浦添市=が住んでいた本部町伊豆味に日本軍の独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)の本部が置かれたのは、1944年10月のことです。その後、集落の雰囲気は変わっていきます。
宇土武彦支隊長は伊豆味集落内の民家に滞在していました。父の忠次郎さんが「沖縄県史」に残した証言では「閑静な伊豆味の村が、すっかり殺伐たる兵隊の町に変貌を遂げてしまった」といいます。宇土支隊長は「ほとんど毎日のように酒色に耽(ふけ)っていた」という態度でした。
伊豆味には「慰安所」が置かれました。次央さんは「われわれが勉強していた公民館も慰安所になった。兵隊が一列に並んでいました」と語ります。
「慰安所」の女性について忠次郎さんは「辻遊郭から連れて来られたジュリグワ(遊女)たちであった」と証言しています。次央さんは「朝鮮の女性がいた」と話し、「兵隊がコンドームを捨てるでしょ。僕らは風船のように膨らませて遊んだよ」と振り返ります。
伊豆味には「軍夫」として重労働を強いられた朝鮮の男性もいました。
「荷物運びをさせられていました。腹が減っていたんでしょう。イモをもらいにきていました。大人たちは朝鮮人のことを『朝鮮ピー』といって非常にばかにしていました」と次央さんは話します。