1931年の満州事変から始まり、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと続いた「十五年戦争」の末期に、日米両軍最大の戦闘・沖縄戦が起きました。日本で唯一の住民を巻き込んだ地上戦が行われ、県民の4人に1人が犠牲になりました。多くの男性が兵隊として戦場に動員されました。残された女性と子どもも地上戦に巻き込まれました。ほとんどの家庭は戦後、貧しさにあえぎました。孤児になった子どもは孤児院の劣悪な環境で命を失う子も少なくありませんでした。生きるために働き教育を受ける機会を逃した子どもたちもいました。
戦場で独りぼっちに
前原生子さん(82) 家族の姿、今も夢に
沖縄戦で両親を失った前原(旧姓・渡慶次)生子さん(82)=那覇市=は、本島南部の旧真壁村で戦場をさまよっていた時に米軍に捕まり、コザ孤児院に送られました。当時小学2年生でした。孤児院で過ごしたのは1945年の夏から冬にかけてと振り返ります。
一緒に過ごした子どもたちは多いときで100人いました。ほとんどの子どもががりがりにやせ、足は細い枝のようでした。「おかゆを食べてすぐ下痢をするような子どもが多かった」と表情をこわばらせ話します。毎日、身体が衰え亡くなる子がいて、次々と担架で運ばれました。「いつか自分も‥」と怖くなりましたが「弾が落ちてこない分だけましだ」と思うぐらい感覚がまひしていたと言います。
米軍上陸後、前原さんは実家のあった首里当蔵町から父親と母親、祖母、親戚とともに南部に逃げました。父親は途中ではぐれ、行方不明になりました。
前原さんが母親と祖母と共に旧真壁村の新垣付近にあった屋敷に身を潜めていたときです。爆弾を落とされ屋根が崩れ落ちてきました。前原さんはすぐ外へ逃げ一命を取り留めましたが、母親と祖母は生き埋めになりました。生きるか死ぬかのぎりぎりの中で母と祖母を助けるゆとりはありませんでした。「悲しいという気持ちが湧かず感覚がまひしていた」。苦しそうに目頭を押さえました。
独りぼっちになり、見知らぬ大人たちの後をついて行きました。その後、米軍から投降を呼び掛けられて捕まり、孤児院へ送られました。
夏の終わりごろ、戦場にかり出されていた三男の兄が孤児院まで前原さんを迎えに訪れました。兵隊だった長男と次男の兄が帰郷したのを機に、きょうだい一緒に暮らしました。
戦前、前原さんの実家は裕福で、400坪の敷地に母屋と四つの貸し屋がありました。母親は物静かな性格で、結い上げた髪にジーファーを挿したおしゃれな人。祖母は社交的な性格でした。
戦前の思い出になると前原さんの目は輝きを増しますが、涙も出てきます。満ち足りた暮らしはすべて戦争で奪われました。父親、母親、祖母と過ごす夢を今でも時折見ます。「戦争は絶対おこしちゃいけない。人の命を奪うし、人間が駄目になる」。強い口調で繰り返しました。
孤児院、多くの子が衰弱死
最大14カ所か、全体像分からず
米軍軍政府は1945年4月以降、戦場をさまよう孤児への間に合わせの対策として、沖縄本島のあちらこちらの避難地域に孤児院を設けました。コザ孤児院や旧羽地村(現名護市)の田井等孤児院では、多くの子どもが衰え弱って亡くなったという証言もあり、命と人権は守られていませんでした。
孤児院は民家やテントを利用した簡単な造りでした。ひめゆり学徒隊や教育関係者、空手家、「慰安婦」らが子どもたちの世話をしていました。当時の孤児院に関する資料はとても少なく、全体像は明らかになっていません。
元ひめゆり学徒隊の本村ツルさん(93)は、1945年7月上旬ごろ、コザ孤児院に世話係としていました。離れ座敷をベニヤ板で区切り、ひとつの区画に4~5人の幼児がいたそうです。ランニングシャツ1枚や裸同然の子もいました。夜になると泣き声が響いたそうです。本村さんが抱き上げると、母親を求めるように胸をまさぐりました。「戦争がなければ大事に育てられたはずなのに」。多くの子どもが下痢をしており、世話係は子どもを水浴びさせて、部屋の汚れを流すのが毎朝の決まった作業でした。米軍人は時折、見回りに訪れましたが、孤児院の運営に関して指示された記憶はないそうです。
県庁がまとめた戦後沖縄児童福祉史によると、孤児院は辺土名、田井等、瀬嵩、福山、漢那、石川、前原、胡差(コザ)、糸満、百名に10カ所あり、約千人の児童が収容されていました。立教大学の浅井春夫前教授の調査では、古我知や久志、首里、野嵩にも孤児院があったという記録があり、多い時には14カ所あったとされています。
働き盛りの男性 召集され戦死
夫失った女性が家族支える
沖縄戦は働き盛りの多くの男性の命を奪いました。戦前と戦後を比べると、兵隊などで戦場に召集された20~40歳代の男性が特に減っています。1945年では、沖縄の全体の人口に対して男性は約4割になりました。夫を失った女性たちは戦後の混乱の中、子や親を抱え、1人で生活を支えなければなりませんでした。
衣料品を扱う那覇の新天地市場では売り手の多くは夫を失った女性たちでした。米軍の兵舎造りなどの軍作業や荷物の運搬などの密貿易に就き、中にはやむなく米兵相手の飲み屋や性産業で働く女性たちもいました。子どもたちの境遇もまた過酷でした。食べ物に事欠く貧しい家庭の子どもも多く、児童福祉史という資料には「貧困家庭児の背景には人身売買、性的問題児は米兵相手の売春があったと思われる」と記されています。
73年たって今の沖縄は?
■在沖米軍基地 県内に集中、事件、事故絶えず
1945年に沖縄を占領した米軍は、住民から奪った土地に基地を造りました。米軍基地が原因の事件・事故も多発しましたが、犯人を裁くことができず、住民の反発は高まりました。県民は「基地のない平和な島」を求めて運動し、72年に日本に復帰しました。
しかし今も、日本全体の面積のわずか0.6%の沖縄に日本国内の米軍専用施設の約7割が集中し、米軍機の墜落や部品の落下、米軍人・軍属による犯罪も絶えず起こっています。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設も強行されています。沖縄県は基地負担の軽減を日米両政府に求めています。
■遺骨・不発弾 地中に眠ったまま
沖縄戦では日本人だけで18万8136人(このうち県出身者12万2228人)が亡くなりました。戦中・戦後の混乱で家族らの遺骨を集めることができなかった人がたくさんいます。沖縄県は、2018年3月末時点で2866体が未収骨と推計しています。高齢になった遺族らは、素早い収集作業や遺骨のDNA鑑定の実施を国に求めています。
また遺骨だけでなく、多くの不発弾が今も地中に埋まっています。昨年度の不発弾処理件数は554件(18.5トン)。16年には那覇市で米国製50キロ爆弾が見つかり、国際通りを約1時間封鎖して処理されました。沖縄県は全ての不発弾の処理にはあと70年ほどかかると見ています。
(2018年6月17日掲載)
写真提供・沖縄県公文書館、データ提供・沖縄県平和祈念資料館