日本兵、スパイ嫌疑で父狙う 照屋次央さん 山の戦争(25)<読者と刻む沖縄戦>


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本部町伊豆味にある「照屋忠英先生遺徳顕彰碑」

 日本軍の独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)は1945年4月に本部半島に進攻した米軍と八重岳や真部岳で戦った後、17日に名護の多野岳に撤退しました。その後も日本軍が住民を狙う出来事がありました。

 伊豆味の山中をさまよい、イシンバ山からイシミジ山に下りてきた照屋次央(つぐひさ)さん(85)=浦添市=の家族の前に今帰仁村運天から来たという日本兵が現れます。父の忠次郎さんは「沖縄県史」に次の証言を残しています。

 《五名の部下をひき連れた敗残兵が突然現れた。そしていきなり、「私は運天からきた者だ。きさまらがスパイをしたために日本は負けてしまった。外へ出ろ。斬り殺してやる」とどなりながら、軍刀をチャラチャラさせていた。》

 日本兵はその後、食料を要求しました。さらに忠次郎さんのいとこの名を挙げ「明日斬ってやる」と言い、村の指導者層の名を記したノートを示したといいます。

 次央さんは「戦闘が終わった後も日本兵はスパイを捜し、村の知識階級を疑っていました。父の友人も『道案内をしてくれ』という日本兵に連れ出されて殺されました」と話します。

 本部町伊豆味では、45年4月中旬、本部国民学校長の照屋忠英さんがスパイ嫌疑で日本兵に殺害されたことが知られています。忠英さんは次央さんの親類でした。