国仲涼子(42)が那覇商業高校に入学する前年の1994年、野球部が春夏連続で甲子園に出場している。「野球部は盛り上がっているなあ」。グラウンドを駆ける同級生に、国仲は熱い視線を送っていた。
自身は部活動には参加せず、アルバイトに励んだ。「高校に入学したらバイトをして稼いでみたいという夢があった」という。バイト先は泊にある軽食店。ほぼ毎日、授業が終わるとバスに乗って通った。夏休みは大忙し。くたくたになるまで働いた。
友人に囲まれ、楽しい高校生活を送った。アルバイトが休みの日は友人と連れだって国際通りを歩いた。コンビニでお菓子を買って、波の上ビーチで語らうことも。「トリートメントは何がいいとか、どの美容室がいいとか。こういう会話が楽しかったな」
高校生らしい悩みもあった。「あの年頃は何に対しても敏感だし、傷つきやすいし、もろかった。頑張って大人になろうと必死だった」と振り返る。特に進路や就職のことで友人と悩みを共有した。「無趣味で好きなものが見つからない自分に焦った。何になりたいんだろうと悩んだ」
そんな頃、バイト先で芸能事務所にスカウトされた。仕事があるか分からないし、不安でいっぱいだった。両親は「何事も経験。取りあえず行ってごらん。だめだったら帰っておいで」という考えだった。
芸能界という未知の世界に踏み出していいのか。東京で暮らせるだろうか。悩んだ末、国仲は担任に相談した。
「どう思っているか意見を聞きたかった。先生は驚くわけでもなく、大きな心で受け止めてくれた。『涼子さんが考えた結果なら応援するからね』と言ってくれたので、ほっとした。先生、お元気でしょうか。会いたいな」
教え子の背中を押した担任、外間美恵子(70)はその日のことをよく覚えている。
「相談されたのは2月の就職休み前だった。芸能界で活動するというので心配だったが、涼子さんはしっかり考えていた。『やりたければ、うんとやっておいで』と答えました」
外間はテレビを通じて国仲の活躍を見守ってきた。「高校時代はおとなしくて謙虚な子だった。決して飾らず、自然体。ドラマを見て、ああ、こういう面もあったんだなと思った」と語る。
98年の卒業後、東京でオーディションとレッスンの日々が続いた。ホームシックになり、両親や友人に電話した。
「友達は『早く涼子がテレビに出るのを見たい』と言ってくれた。『帰ってきたら負けだよ』とも。『帰ってきたら一緒に遊ぼうよ』という友達もいた。それも含め決断するのは私だと思っていた」
芸能界で成功する自信はなかったという国仲の人生は「ちゅらさん」のヒロインを射止めことで大きく変わった。それがなければ「沖縄に帰っていたと思う」と語る。
ドラマは沖縄ブームを巻き起こし、社会現象となったが、演じている時、そのような意識はなかった。「撮影の毎日で周囲の状況は把握できなかった。たまに沖縄に帰ると皆に声を掛けられ、びっくりした」
デビューから今日までの歩みを振り返り「いろんなことがあった。全てが順調だったというわけではない。でも楽しく過ごしてきた」と語る。
卒業後、母校を訪れたことはないが、友人との関係は続いている。「友達と会うと力がみなぎってくる。あの頃に戻ることができる」と国仲。それぞれ家庭を築き、悩みながら年を重ねてきた。最近は子育てのことが話題となる。
沖縄を離れて20年余が過ぎ、東京から故郷の変化を見つめてきた。
「少しずつ変わっていく部分を見守っていきたい。でも沖縄らしさは変わってほしくない。具体的には沖縄のおばあの強さ、優しさ。私は沖縄のおばあになれるかな」
那覇商業に通った3年間。「あの頃は分からなかったけれど、なんて幸せな日々だったんだろうと大人なって思うんです」と国仲は語る。そして母校で学ぶ後輩たちに呼び掛ける。
「あのピチピチの時代は帰ってこない。一日一日を楽しんでほしい」
(那覇商業高校編はおわり。東京五輪終了後、普天間高校編をスタートします)
(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)
1995年の国仲涼子さん「制服かわいい」那覇商業高での出会い
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