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「お菓子通り」で子も育つ 合格祝いに沖縄土産…息づく営み、今も変わらず<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈20>


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戦後間もない時期に創業して家族、親せきで支え、営んできた松原屋製菓=那覇市松尾

 国際通りを背に、市場本通りに入る。アーケードの下を進んでゆくと、「もちのやまや」「外間製菓」「お菓子のオナガ」と、お菓子屋さんの看板をいくつも見かける。

 「このあたりは昔、お菓子通りだったんです」。そう教えてくれたのは、「松原屋製菓」の眞喜志のり子さん(49)。昔は今よりお菓子屋さんが多く、向かいに5軒も並んでいたという。お菓子屋さんに限らず、果物屋さんにかつお節屋さんと、行事に欠かせない品物を扱う店がひしめき合っていた。

戦後、祖母が創業

 「松原屋製菓」を創業したのは、のり子さんの祖母で宮古島出身の松原ヨノシさん。戦後間もないころ、ヨノシさんは那覇市樋川に店を構え、黒糖あめを作り始める。これを販売するのは長女・ミヨ子さん(のり子さんの母)の仕事で、10代の頃からまちぐゎーを巡り、黒糖あめを売り歩いていた。ミヨ子さんは24歳で中山武光さんと結婚すると、現在の場所に店を移し、2階はお菓子の工場、1階はお菓子売り場兼食堂として営業を始める。何年かすると食堂は畳んだものの、その時代の名残で、壁にはメニュー表が貼られたままになっていたという。値段の表記はドルだった。

 「その時代には、合格発表の時期も忙しかったんです」とのり子さん。「今はそういうお客さんは少なくなりましたけど、合格発表のお祝いに、カステラや紅白まんじゅう、紅白餅を注文される方も多かったですね。あとは、やっぱり行事や法事のときにお供えするお餅とお菓子ですね。行事ごとの時期になると、『市場にくるとお供物がそろうね』と言ってくださる方も多くて、ありがたいです」

昔ながらのバタークリームのケーキも扱っている。のり子さんの父・武光さんが習いに出て作り始めたショートケーキは半世紀以上のロングセラー

 「松原屋製菓」は家族経営で、繁忙期には家族全員で手伝っても追いつかず、親戚も総出でお菓子を売ってきた。8人きょうだいの末っ子にあたるのり子さんも、中学生になると放課後に友達と遊ぶこともなく、まっすぐ帰宅して店を手伝ってきた。高校受験がお彼岸の時期と重なり、受験前日まで店で働いたときには、担任の先生に怒られた。「当たり前かのようにずっとここで働いてきたから、外の世界はわからないです」とのり子さんは笑う。

 父・武光さんは多くの従業員を住み込みで雇い、工場長として働いた。店頭販売を仕切るのが母・ミヨ子さんで、母はとにかく仕事に厳しかった。「いつ何時お供え物が必要になるかわからないのに、誰かがお菓子を買えなかったら大変だ」と、年中無休で営業を続けていた。のり子さんもまた、母と一緒に、休むことなく働いた。交代で休日が取れるようになったのは、ここ20年のことだ。

状況が一変

家族で営んできた松原屋製菓を切り盛りする眞喜志のり子さん
店頭に並ぶ「ちんびん」。観光客にも分かりやすいように説明書きも添えている

 夏休みに入ると観光客が増え、サーターアンダギーの売り上げが伸び、1000個以上売れる日も珍しくなかった。昔は白砂糖とカボチャ味だけだったサーターアンダギーも、10種類近く並べるようになった。8月に入ると旧盆があり、9月にはお彼岸と、4月のシーミーの時期までは繁忙期が続く。例年であれば7月に話を聞かせてもらう余裕はなかったはずなのに、コロナで状況が一変した。

 「公設市場が建て替えになるときも、心配はしたんです。でも、うちは仮設市場に向かう曲がり角にあるから、あんまり影響なかったんですよ。でも、コロナで一気に変わって、観光客だけじゃなくて、お供物を買いにくる方もいなくなりました。去年はシーミーも自粛、お盆も自粛って言われて、買いにくる方はほとんどいなかったです。今年は戻るかと思っていたんですけど、ウークイの日まで緊急事態宣言だというから、今年も静かでしょうね」

 コロナ禍以前、「松原屋製菓」は朝9時から夜9時まで営業していた。界隈(かいわい)にせんべろの店が増えたこともあり、一杯飲んだ帰り道に、お菓子を買っていくお客さんも多かった。でも、今では夕方になるとほとんどの店がシャッターを下ろし、夜の人通りは極端に減った。今は営業時間を午後3時までに短縮し、定休日も設けている。

 「まわりのお菓子屋さんだと、日曜や月曜がお休みのところが多いので、うちは水曜日を定休日にしました。全部が一気に休んでしまって、どこも営業していないとなると、『市場に行ってもお菓子が買えなかった』となりますよね。そうするとお客さんがいなくなっちゃうから、うちは水曜日に休むことにしたんです。お母さんがいた頃は、定休日を作るなんて、考えられなかったですね」

市場に育てられ

店頭に並ぶ月桃で包んだムーチー
店頭に並ぶ黒糖味のサーターアンダギー

 市場界隈を取材していると、「母は仕事が忙しかったから、あんまり構ってもらえなくて、まちぐゎーに育てられた」と語る人が大勢いる。観光客が減った今、まちぐゎーを歩くと、小学生が駆けまわる姿が目に留まるようになった。朝の市場本通りを歩くと、開店準備を進めるお店に小学生が立ち寄り、あいさつをしてから登校してゆく姿を見かけた。

 「それ、うちの子だと思います」とのり子さんは気恥ずかしそうに言う。「うちの子も、私がここで働いているあいだは、どこかのお店に行って遊んでいるから、市場に育てられてますね。昔は“一銭まちや”と呼ばれる駄菓子屋さんもあって、私もそういうとこで遊んでいたんです。今はこの通りに『おきなわ屋』さんができて、そこはくじ引きがあるんですけど、娘が行きたいって騒ぐんです。そこは10円、20円のお菓子も売っているから、一人でお使いする勉強になるかと思って、50円持って遊びに行かせてます」

 市場の建て替えに、コロナ禍が重なり、まちぐゎーは激動の季節を迎え、街並みは大きく移ろいつつある。時計の針を巻き戻すことは叶わなくとも、しっかり目を凝らせば、昔と変わらぬ営みが、今も息づいている。

(ライター・橋本倫史)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2021年7月23日琉球新報掲載)