戦争に危機感、疎開準備へ 赤嶺松栄さん 住民の「疎開」(1)


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赤嶺松栄さん

 南風原町の赤嶺松栄さん(85)から九州疎開での出来事を記した体験記が届きました。赤嶺さんは母、姉と共に宮崎県高岡町(現宮崎市高岡町)に疎開し、戦後、南風原に引き揚げました。沖縄戦で父を失いました。

 赤嶺さんは1935年9月、当時の南風原村宮平で生まれました。父松助さん、母カミさん、姉3人の6人家族でした。
 1944年、赤嶺さんが南風原国民学校3年生の頃、日本軍の駐屯が進みます。学校も日本軍が徴用しました。
 「兵隊が国民学校に入ったので、各字のムラヤーを使った分散教室で授業を受けることもありました」と赤嶺さんは語ります。
 10・10空襲で病院や兵舎を失った沖縄陸軍病院が那覇から南風原国民学校に移動してきました。周辺では陣地構築が進みます。宮平に住む多くの男性が防衛隊として動員されました。
 疎開の話が出るのは44年夏です。米軍との戦闘でサイパンの日本軍が壊滅した7月7日、政府は沖縄のお年寄り女性、子どもたちを九州や台湾に疎開させる方針を決め、沖縄県に通達します。県は7月19日、「学童集団疎開準備に関する件」を那覇・首里市長、宮古・八重山両支庁長、国民学校長あてに発令し、疎開準備を促します。
 赤嶺さんは体験記の冒頭にこう書きます。
 《南風原国民学校の3年生だった1944年になって、沖縄に戦争が迫ってくるとの危機感がもたらされて、県外への疎開の話は持ち上がりました。》