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普天間高校(1)「焼け跡の教師」は芥川賞作家に 平和の願い未来に託し<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
普天間高校の校舎=宜野湾市普天間

 普天間高校の歴史は1945年12月、野嵩収容地区に集められた旧制中学校の生徒を対象に、民家で授業を始めたことに始まる。間もなく現在の宜野湾市役所の裏手に仮校舎を建てた。

 46年3月、コザ高校分教場に位置付けられ、48年3月、野嵩高等学校として独立した。この年7月、現在の敷地に移転。普天間高校に校名が変わるのは57年のことである。

 昨年他界した小説家の大城立裕は若き日、野嵩高校の教壇に立った。48年5月から2年間である。自伝的小説「焼け跡の高校教師」で大城は「その二年間が私の人生のなかで、最も輝いていた」と回想した。「わが学舎(まなびや)は聳(そび)えたつ」と歌う校歌の作詞者でもある。

 3期で元県議会議長の友寄信助(87)は大城の授業を受けた1人である。「大城さんは私たちの担任で、20代の若い先生だった。腰にタオルを巻いて授業をしていた姿を覚えている」と振り返る。


 

友寄信助氏

 友寄信助(87)は1933年、神奈川県横浜市鶴見区で生まれた。帰郷は47年。中城村の久場崎沖で目にした沖縄の惨状に衝撃を受けた。

 「陸地に近づくと緑がはぎ取られ、石灰岩がむき出の山肌が見えた。戦争の恐ろしさを実感した」

 この年、野嵩高校に入学した。テント小屋の教室で、雨が降ると足元はぬかるんだ。教科書やノートもなく「勉強をする環境は厳しかった。戦争に負けるのはこういうことかと思った」と語る。しかし、絶望していたわけではない。

 「戦後の解放感の中で生徒は朗らかで明るく、これからの沖縄に期待していた。生徒同士で戦争のことを語り合うことはかったが、二度と戦争を起こしてはならないという思いだった」

 大城立裕との出会いはその頃。石坂洋次郎の「青い山脈」を元に大城が台本を手掛けた演劇に出演。49年11月、うるま新報社(現琉球新報社)主催の演劇コンクールで一等となった。「街の暴れん坊の1人という役だった。あまりせりふはなかった」と懐かしそうに笑う。

 卒業後、米軍基地に職を求めた友寄は青年会活動に参加し、復帰運動に奔走した。後に衆院議員となる上原康助らと共に全沖縄軍労働組合を組織し、基地従業員の権利獲得のため米軍と対峙(たいじ)した。76年から県議を7期28年勤めた。

 その後も「沖縄建白書の実現を目指し未来を拓く島ぐるみ会議」の共同代表に就き、沖縄に横たわる理不尽と向き合った。「二度と戦争を起こしてはならない」という高校時代の思いが根底にある。

1953年ごろの普天間高校の校門(創立50周年記念誌「並み松」より)
渡嘉敷喜代子氏

 元県議の渡嘉敷喜代子(81)は11期。入学時は野嵩高校、卒業時は普天間高校という世代である。

 40年、フィリピンのダバオで生まれた。5歳の時、日米両軍の戦闘に巻き込まれる。米軍に捕らわれた家族は45年10月、鹿児島へ。戦場で兄を、弟を鹿児島で亡くした。46年12月、沖縄に引き揚げた。

 中学3年生だった55年7月、渡嘉敷は米軍による伊佐浜強制土地接収の現場に足を運んだ。

 「友だちと一緒に様子を見に行ったら、野嵩高校の先生が米軍のジープで連行された。生徒が『先生、先生』と叫んでいました」

 連行された教諭は土地接収に抵抗する伊佐浜住民を支援しており、北中城村の琉球軍司令部(ライカム)で取り調べを受けた。教諭はその後、教職を離れた。

 56年、野嵩高校に入学。1年生の頃から生徒会活動に参加した。米軍による土地新規接収に反対する「島ぐるみ闘争」が盛り上がりを見せた時代。生徒の政治意識は高かった。「生徒集会で生徒会長が『四原則貫徹』を訴えた」と語る。

 生徒指導に厳しかった笠井善徳教頭の叱声(しっせい)を今も覚えている。3年間、文芸クラブで活動した。在学中に制服が制定された。「いい制服だと今も思う。制服を着て体育の授業を受けたこともある」

 渡嘉敷は東京の共立女子大学短大部で学び、帰郷後は琉球政府で8年間働いた。その後はPTA活動に携わり、県教育委員を務めた。2003年、政界の先輩でもある友寄信助らの要請を受けて県議補選に立候補し、当選。3期務めた。

 今年2月に発足した「クオータ制で女性議員増をめざす会」のメンバーに加わった。米軍の圧政が吹き荒れた50年代に高校生だった渡嘉敷は、新たな政治の可能性を追い続ける。

(文中敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)

普天間高校の校歌が聞けます。