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甲子園おなじみの応援歌が誕生 恋に部活に音楽に…喜納昌吉さん、安次富修さん 普天間高校(2)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1970年代中頃の普天間高校(卒業アルバムより)

 国内外で広く歌われている名曲「花」を生んだミュージシャンで元参院議員の喜納昌吉(73)は普天間高校の19期だ。高校時代から曲を作り始めた。

 1948年、現在の沖縄市久保田で生まれた。父は沖縄民謡の黄金期を支えた喜納昌永。三線を弾く父の姿を見て育った。島袋小学校、山内中学校で学んだ。「子どもの頃は貧しくて、本を持たずに学校に通っていた」と語る。

 中学2年の頃まで高校進学を全く意識していなかったが、友人たちは受験勉強に励みだした。ひょんなことで喜納も普天間高校を目指すようになる。

 「好きになった女の子が『普天間高校に行く』というので僕も行きたくなった。ところが先生は『他の高校なら通るよ』と言う。今の成績では普天間は無理ということだった」

喜納 昌吉氏

 成績は数学が3で、その他の教科は2か1。喜納は奮起し、友人から参考書を借りて猛勉強した。「初めて勉強に目覚めた。そしたら神がかり的に通ってしまった」

 高校時代の喜納は体操部や空手部で汗を流す生徒だった。入試の勢いで勉強にも励み「席次上位を目指して、一生懸命頑張った」。ところが席次の張り出しが取りやめとなり、学習意欲は冷めた。

 高校時代に喜納の代表曲が生まれた。甲子園アルプススタンドの応援歌でもおなじみの「ハイサイおじさん」は沖縄戦で心に傷を負った近所の男性をモデルにした。「馬車小引んちゃー」は幼い頃遊んだ恩納村の風景を描いた。

 卒業後、国際大学(現沖縄国際大)に進学し、「チャンプルーズ」を結成。「ハイサイおじさん」のヒットでその名は全国区となる。並行して社会問題への関心を強め、反原発、環境、先住民などさまざまな市民運動に携わった。謝花昇の生き方に影響を受け、歌も作った。2004年、参院議員となった。

 喜納はいま、原点の音楽活動に立ち戻った。「音楽には古いものをよみがえらせる力がある」。沖縄に軸足を据え、日本、世界を見つめる姿勢は不変だ。

 喜納が参議院にいる頃、衆院議員として活動していたのが26期の安次富修(65)である。「高校時代の財産は仲間たちとの友情ですね」と語る。

安次富 修氏

 1956年、宜野湾市で生まれ、普天間小学校、普天間中学校で学んだ。父は宜野湾市長を務めた安次富盛信である。

 中学生の頃はバスケットボール部に所属し、九州大会にも出場した。「正月も練習に明け暮れた」という。その反動で、71年に普天間高に入学した安次富はバスケット部には入部せず、フォークソングに夢中になった。

 「吉田拓郎、井上陽水が出てきた時代。とても影響を受けた。みんな髪の毛を伸ばして、ギターを弾いて。にわか詩人になった。コンサートもやりましたよ」

 高校1年の時の学園祭で、安次富のクラスは劇をやった。「方言劇の『うんたまぎるー』の脚本を私が書いて、配役を与えた。とても評判が良かった」

 高校2年の時、沖縄の施政権返還を迎えた。「ピンとこなかった」という。

 「復帰の日は普通通り授業を受けた。うれしいというより、複雑な心境。『アメリカ世からヤマト世になるというが、それでもわったーウチナーンチュだよ』という感じだった。喜びはなかった」

 卒業後、東京の亜細亜大学へ進学。父のつてもあり、国場幸昌衆院議員の秘書となり、国政の慌ただしい空気に触れた。86年に帰郷し、この年の宜野湾市議選に立候補し、当選。96年に県議に転じ、2003年には衆院議員となった。

 「選挙を11回戦った。宜野湾の全ての道をひたすら歩いた」と安次富。約20年の政治活動の半分は、普天間飛行場返還・移設問題の激動と共にあった。

 普天間高を卒業して47年になる。手元に残る卒業アルバムに載っている安次富は長髪姿だ。

 「多感な時期だった。勉強に悩み、女の子が好きになることもあった。いろんな壁が生まれ、同級生や友人に相談した。振り返って思うのは仲間との友情のことだ」

 髪を伸ばし、ギターを弾いて歌った日々を安次富は思い出す。

(文中敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)

普天間高校の校歌が聞けます。