参院議員で元宜野湾市長の伊波洋一(69)は普天間高校の22期。政治意識が芽生え、本を読んだ3年間だった。
1952年、宜野湾市嘉数で生まれた。当時の嘉数は農村地域だった。「自然が豊かだった。集落内も木々が茂り、一つの森みたいだった」と懐かしむ。
嘉数小学校を経て64年に嘉数中学校へ。バレーボール部に所属した。「東京オリンピックでバレーの回転レシーブが話題になった。学校のグラウンドでやったら、石ころが土に混じっていて痛かった」
67年に普天間高校に入学し、生徒会活動に参加した。2年で副会長となる。復帰運動が高まりを見せた時代だった。普天間に拠点を置いた全沖縄軍労働組合(全軍労)が米軍と対峙(たいじ)し、大規模なデモをした。自然と生徒が刺激を受けた。
「生徒の政治意識は高かった。復帰問題、米軍の戦争の問題を生徒同士で話し合った。戦争体験のある教師も政治的で、いろんな話をしてくれた」
68年の主席公選での屋良朝苗の当選、B52戦略爆撃機の墜落。伊波は沖縄の激動に普天間高の内外で接した。「印象に残るのが、B52墜落に抗議する県民大会。機動隊とデモ隊が衝突し、放物線を描いて火炎ビンが飛んだのを覚えている」
大学紛争のうねりは沖縄にも押し寄せていた。「高校でも校内デモがあった」と伊波は語る。
読書に親しむ生徒でもあった。さまざまな文学作品を読みあさった。「森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介、カミュ、サルトル。『世界』などの雑誌も読んでいました」
琉球大学では物理学を専攻。74年に宜野湾市役所に入り、環境保全や役所の電算システム開発に関する業務に携わった。並行して労働組合運動に参加し、市民運動とも接点を持った。
96年に県議に初当選。2003年に市長となった。今日に至るまで伊波の政治活動は沖縄の米軍基地問題、とりわけ普天間返還・移設問題の解決に注がれてきた。その出発点は普天間高校の3年間にある。
現在の宜野湾市長の松川正則(67)は24期。スポーツに打ち込む高校生活を送った。「朝から晩までバスケットボールだったよ」
1953年、宜野湾市野嵩の生まれ。普天間小学校、普天間中学校を経て、69年に普天間高校に入学した。普天間中では野球部に所属していたが、懇意にしていたバスケットボール指導者の新里勲の勧めもあり、普天間高ではバスケット部に入部した。
当時はまだ体育館がなく、松川らはグラウンドに設置した土のコートで練習した。もう1カ所、練習場所があった。米軍基地キャンプ瑞慶覧内の体育館である。
「学校を出て、ドリブルをしながら基地のゲートを通過して体育館に行き、外国人と練習した。『琉米親善』として普天間高、首里高、久場崎ハイスクールで試合をしたこともある」
練習はきつかった。先輩部員がグラウンドから50メートル離れた正門に向かって投げたボールを追わされた。「練習中、吐いてしまうくらいだった。こういうことを乗り越えたので、大概のことではくじけないようになった」
70年、2年生の松川は和歌山県で開催された高校総体に出場した。最後の大会となった71年、高校総体出場をかけて首里高校と戦い、1ゴール差で涙をのんだ。「あの時は、さすがに泣いた」。陸上競技にも打ち込んだ。高校駅伝大会で「花の一区」を走ったことが良き思い出だ。
卒業後の73年、宜野湾市役所に入る。琉球大学短大部で学びながら働いた。主に福祉、年金の分野で行政経験を積んだ。2018年、宜野湾市長に就任した。
バスケットボールに明け暮れた3年間を振り返り「部活ばかりで余裕はなく、クラスメートとの触れ合いは少なかった。もっと深い付き合いがあっても良かったなあ」と語る。
そう語る松川だが、市長就任の際は100人近くの同級生が激励のために集まった。宜野湾市政のかじ取りを見守ってくれる仲間たちは、松川の財産である。
※注:森鴎外の「鴎」は「区」が「區」
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)