「台湾沖航空戦」で住民避難 本田昭正さん 島の戦争(2)<読者と刻む沖縄戦>


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波照間小中学校の児童生徒による慰霊祭=2012年6月

 本田昭正さん(86)=浦添市=が生まれ育った竹富町の波照間島はカツオ漁と米や麦、アワなどの雑穀、サツマイモを作る農業の島でした。本田さんの父は農業、一緒に暮らす叔父の仲本信幸さんはカツオ工場を営んでいました。

 1941年12月の日米開戦は、通っていた波照間国民学校で教わりました。「幼いのでアメリカに対する敵がい心はありませんでした。3年生の時、先生が『大きくなったら兵隊さんになれよ』と言っていました。当時の教育ですよ」と本田さんは語ります。

 八重山の島々を戦雲が覆います。1944年の10月12日、石垣島の日本軍飛行場が米軍機の爆撃を受けます。波照間島に被害はありませんでしたが、同じ日に始まる「台湾沖航空戦」では一部住民が避難しました。

 《日中から飛行機が島の上を飛び交い、遠雷のような砲弾の音が聞こえ、夜は南西洋上はるかに稲光のような光やサーチライトのような光が見えた。驚いた島民は不安になり、夜は近くの洞窟に隠れたりした。》

 大本営は日本軍の「大戦果」を発表しました。この発表に基づき、石垣島で発行されていた新聞も「石垣島海域に挙る大戦果 轟撃沈破廿三隻」の見出しとともに多数の船を撃沈したと報じます。

 後に「台湾沖航空戦」の「大戦果」は日本軍の事実誤認だったことが判明します。ところが、国民には公にされませんでした。