波照間島も連日の空襲 本田昭正さん 島の戦争(3)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
波照間島の「戦争マラリア」の悲劇を描いた劇を演じる生徒ら=1989年11月、波照間小中学校体育館

 1945年1月、波照間島も空襲に遭います。本田昭正さん(86)=浦添市=ら島民の生活が脅かされるようになります。

 《島への初空襲は昭和20年1月にあり、敵機8機が来襲し、民家1戸と倉庫数戸が全焼した。2月の空襲ではカツオ工場と漁船が空襲された。カツオ工場2カ所が全焼し、1カ所が半焼した。漁船にも爆弾が投下されたが、命中せずに無事だった。
 この頃から連日のように敵機が襲来した。授業中の敵機襲来で学校近くの林の中の、にわか作りの防空壕に逃げ込んだ。この頃から授業はできずに、学校は休校となった。》

 本田さんは「カツオ工場は煙突があったために狙われたようです。その後、煙突を倒してアダンを屋根に載せて偽装しました。授業中、敵機が来た時は学校の石垣を乗り越え、山に造った防空壕に逃げました。壕と言っても、機銃掃射から身を守るため、石を積んだだけの壕です」と話します。

 当時、県や大政翼賛会が中心となり「軍神大舛」顕彰運動を推し進めていました。43年にガダルカナルで戦死した与那国島出身の大舛松市さんを「軍神」とたたえ、戦意高揚を図ったのです。沖縄全体で「大舛大尉に続け」が合言葉となりました。

 「波照間国民学校でもポスター展があり、同級生の描いた絵も展示されました。大舛大尉の歌もありました」と本田さんは振り返ります。