マラリア有病地へ疎開命令 本田昭正さん 島の戦争(4)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
波照間島の畑地=2017年

 1944年末、波照間島に1人の兵士がやってきます。「山下虎雄」と名乗る軍曹で、陸軍中野学校を卒業した残置諜報員です。山下虎雄は偽名で、本名は酒井喜代輔(酒井清)です。

 本田昭正さん(86)=浦添市=は「山下軍曹は青年学校の教師として島に入ってきました。途中まで住民と仲良くやっていたようです」と語ります。

 45年春、山下軍曹は西表島南風見への疎開を島民に命じます。南風見はマラリア有病地帯のため住民は反対しましたが、山下軍曹は住民を脅し、疎開を強行します。日本軍は西表島のマラリア有病地を把握していました。

 《疎開についての島民の話し合いが、空襲を避けてキパリヤマの森の中で持たれた。疎開地が風土病マラリアのある西表島ということで、疎開を渋る意見が多かった。

 その時、青年学校の指導員として赴任していた特務員の山下虎雄が軍人の本性を現し、「これは軍命である。反対するものは切り捨てる」と軍刀を振り回して威嚇した。それに恐れをなして、西表島への疎開が決定された。》

 山下軍曹は密かに島を脱出し、戦後は滋賀県で暮らしました。1989年の琉球新報の取材に対し、波照間島に米軍が上陸する可能性があったことが疎開命令の理由だったと証言しています。それに対し、住民の強制疎開は「軍の食糧確保が目的だった」との見方もあります。