今年3月、普天間飛行場沿いに宜野湾市道11号が全面開通した。全長3.5キロ。1979年の事業化から開通まで42年を要した。この間、7人の市長が市政を担った。
元宜野湾市長で普天間高校9期の比嘉盛光(83)は市道を車で通った。「喜びはあるが、時間がかかった。複雑な気持ちだ」
1938年、宜野湾市宜野湾の出身。戦前の屋敷は普天間飛行場の中にある。「管制塔の近く。基地のど真ん中です」。戦争中は兵庫県で過ごし、48年に帰郷した。野嵩のテント小屋が戦後の住処だった。
54年、野嵩高校に入学した。「校庭に穴ぼこが多く、整地作業をさせられた。スコップを持参するよう言われた」
生活は苦しく、米軍基地内で芝刈りのアルバイトをして学費をかせいだ。その頃、校内で存在感を発揮していたのが社会研究クラブだった。
「米軍基地反対の活動だった。瀬長亀次郎さんの演説会に生徒を動員し、伊佐浜の強制土地接収では現地で阻止行動をした」
伊佐浜土地接収の最中、クラブ顧問の教師が米軍に連行され、騒ぎとなった。クラブの蔵書が没収されたこともあった。活動に関心があったが、アルバイトで忙しく、参加できなかった。
卒業後、宜野湾村役場に入った。市民経済部長や企画部長を歴任し、97年に市長に就任した。普天間飛行場返還・移設問題では政府との対応で厳しい判断を迫られた。
「基地行政は不条理な面がある。協力してくれるなら国は対応する、協力しなければ何もしないという態度だった。これでは地方は追い込まれてしまう」
伊波洋一の後継で宜野湾市長となった安里猛(69)は22期。1952年に生まれ、67年に普天間高校に入学した。
文武両道の校風の中、3年間、バスケットボール部で汗を流した。「69年、インターハイ県予選で優勝した時代です」。71年には野球部が春の甲子園に出場し、一勝を挙げた。
71年、宜野湾市教育委員会に採用された。企画部次長、市民経済部次長、市助役など市政の中枢を歩んだ。その間、市道11号の建設が懸案となっていた。
「安次富盛信市長の発想で飛行場の地下に東西横断トンネルを造ろうとした。しかし、高低差があり、洞窟が多いことなどから市道11号計画に収斂された」
計画に米軍は抵抗した。政府交渉も難航した。市道開通を「地域住民の思いがかなった」と語った上で、「こんちくしょうという思いもある。国と地方との関係はこれでいいのか」と付け加えた。
2010年、市長に就任したが、病気療養のため、12年に辞職。14年、心臓移植手術を受けた。現在、心臓移植患者と家族を支える「芭蕉の会」の会長として活動する。
「ドナーからもらった命をつなげていく。それが私の仕事だ。命の大切さを言い続けたい」
安里が辞職した後の選挙で市長となった佐喜真淳(57)は35期。市長選では市道11号の整備推進を公約に掲げた。
1964年、宜野湾市真志喜の生まれ。父は市議会議長を務めた佐喜真博。80年、普天間高校に入学した。「校訓は『質実剛健』だけど、校風は世代によって異なる。僕らのころは『和気あいあい』だ」
野球部に所属した。ポジションはライト。「当時は仲田幸司のいる興南高校が強かった」。監督は普天間高の先輩で、後に県高野連理事長となる新垣清貴。「怖いけれど、印象に残る先生でした」
千葉商科大学へ進学した佐喜真は、空手の剛柔流に打ち込む。身に付けた技を海外に広めるため、7年間フランスで暮らした。
帰国後、転機が訪れる。99年に父が急逝。2001年7月の市議会補選に立候補した。「政治家になることは考えていなかった」という。佐喜真は当選を重ね、県議を経て宜野湾市長となった。
政治の道を歩み出して20年。佐喜真は「普天間高校の卒業生で良かった」と語る。政治活動の折々で同級生たちが支えてくれた。「友情が一番。同級生の付き合いが財産だ」
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)