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サッカー、野球部、百恵ちゃん…浜田京介氏、比嘉孝則氏 普天間高校(5)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
念願の甲子園初出場決定の通知に喜ぶ普天間高校野球部=1971年2月1日

 中城村長の浜田京介(58)は普天間高校の33期。サッカーが好きで歌手の山口百恵に思いを寄せる高校生だった。「仲間たちは高校で得た財産。妻との出会いもあった」と語る。

 1962年、宜野湾市野嵩の生まれ。普天間小学校、普天間中学校を経て、78年に普天間高校に入学した。高校3年の時、父の出身地の中城村に転居した。

浜田 京介氏

 小学校の頃は野球少年。キャンプ瑞慶覧内の球場で練習した。「わずか10人のチームだったけど強かったよ」。中学でも野球部で白球を追った。

 当時、普天間小と普天間高は運動場を共用しており、普天間高の生徒と毎日接していた。「当たり前のように、普天間高に行くものと思っていた。入試があることさえ知らなかった」

 高校ではサッカー部に所属した。「髪を切らなくていいと聞いた。ところが入部したら丸刈りだったよ」と笑う。キャプテンとなり、部員を引っ張った。

 「勉強はやったうちには入らない。高校の3年間はサッカーと百恵ちゃん。大ファンでした」。百恵ちゃんにまつわる思い出がある。「忘れもしない、昭和55年10月5日の夜だった」

 この日、普天間高の文化祭があった。後夜祭では交際中の男女がフォークダンスを楽しむのが恒例だったが、同じ夜に山口百恵の引退コンサートのテレビ中継があった。そのころ、浜田は同級生の女生徒と交際していた。

 「どうしようかと考えた末、友達と百恵ちゃんのコンサートをテレビで見た。2人で泣いた。彼女にはすごく叱られた」

 数年後、その彼女と結婚した。

 福岡の大学に進学。帰郷後は建設会社で勤め、2002年、39歳の時に村議に立候補した。行政トップとして村づくりを進めるべく、08年に村長選に挑み、当選した。現在4期目である。

 小説家の大城立裕が作詞した普天間高の校歌を愛唱する。妻のほか父、妹と弟、娘も普天間高の卒業生。家族で高校時代のことを懐かしむ。「いつも笑いがあった学生生活。楽しい3年間でした」

比嘉 孝則氏

 昨年12月、北中城村長となった比嘉孝則(67)は25期。「自由奔放とまでは言わないけど、何事にも縛られず、生徒は楽しく高校生活を送った」

 1954年、北中城村喜舍場で生まれた。北中城小学校、北中城中学校で学び、70年に普天間高校に入学した。夏休み前に野球部に入り、練習に明け暮れる毎日を送った。71年3月、野球部は春の甲子園に出場した。2年の時も強豪チームと接戦を繰り広げた。

 高校最後の大会となった72年夏の大会。普天間高は北山高に逆転負けを喫した。内心ほっとした。「これで苦しい練習から解放される」。当時の先輩とは今も付き合いがある。「いい先輩たちだった。今も頭が上がらない」

 普天間高校周辺の街を思い出し、「あの頃の普天間は元気があった」と懐かしむ。野球部の練習が終わった後、普天間にあった映画館に足を運んだ。好きな俳優はジェーン・フォンダやポール・ニューマン、ダスティン・ホフマンら。社会派の洋画が好きだった。

 同級生の間で恋愛のことが話題となった。「振られた話ばかり。僕は臆病なので、片思いばかりでした」

 卒業後、東京の大学へ進学した。「人生の中で一度は東京を経験したい」という思いからだった。府中市などで暮らし、地域の子どもたちと野球を楽しんだ。「英語を教えてほしいという子もいた。沖縄出身だから英語が得意だと思ったんでしょう」

 帰郷後、民間企業を経て北中城村役場へ。退職後、村長選に挑んだ。自身が理想とする地域振興を目指すためだった。「この村で生まれ育ったわれわれしか分からない街づくりがあるはずだ」と力説する。

 普天間高校の3年間は一生忘れられない。今も高校の前を通ると郷愁を感じるという。「野球部メンバーたちでつくる還暦野球チームがあるんです。まだ行ってないけれど、僕のユニホームを用意しているそうです」

 そう話し、比嘉は笑顔を浮かべた。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)

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