ソテツ食べ飢えしのぐ 本田昭正さん 島の戦争(9)<読者と刻む沖縄戦>


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戦争マラリアで亡くなった児童を悼む学童慰霊碑。碑文には山下軍曹の行為を「忘れはしない」と刻まれている

 1945年8月以降、波照間住民の間でマラリアがまん延し、死者が続出します。食料も不足しました。本田昭正さん(86)=浦添市=もソテツで飢えをしのぎました。

 《食料はなく、ソテツを切り倒して幹を切り分け、発酵させて水洗いをしてでんぷんを取った。それを何度も水にさらして毒を抜いたソテツ粥では栄養もとれない。力がなくて、「ソテツ地獄」がマラリア禍を大きくした。》

 本田さんは「4カ月も畑を放置していた。イモは少しはあったが、残りはソテツくらい。おいしくなかった」と話します。

 本田さんの叔父で村議の仲本信幸さんは石垣島にいる独立混成第45旅団の宮崎武之旅団長にあてて、波照間島の窮状を伝える手紙を書きます。仲本さんもマラリアで苦しんでいました。

 《マラリアで衰弱し、病床にあった仲本信幸が島の惨状を訴えて書いた手紙を見て驚いた石垣島の守備隊長は軍船で救護の兵士若干名を派遣し、食料と薬品を島に届けた。

 医療班の兵士は薬の配分と看護、救護班の兵士は病人への炊き出しや死者の埋葬などをやったが、薬や食料はわずかで、焼け石に水だった。》

 仲本さんが書いた手紙について「沖縄県史」は「その手紙は決死の覚悟で書いた筆跡が克明にきざみこまれ、血のにじみでるようなものがあり、当事者の心を打った」と記します。