上与那原寛和、当時28歳。小雨の降る夜道。仕事帰りにバイクで北中城村内の坂を下っている時だった。前方車を追い越そうとして対向車と接触。はね飛ばされ、アスファルトにたたき付けられた。かすかに聞こえる救急車のサイレン音と共に意識が遠のいた。
目を覚ますと、病院のベッドの上にいた。起き上がろうとしても、重しを乗せられたように体が言うことをきかない。頸椎(けいつい)損傷で四肢がまひしていた。「人生終わった」。失意に暮れ、妻・みさおさんや看護師にいらだちをぶつけた。しかし当時、長男と次男はまだ4歳と2歳。「これじゃいかん。事故は自分のせい。できることからやっていこう」。顔を上げ、リハビリや資格取得に励んだ。
車いす陸上との出合いは31歳の時。県車椅子陸上クラブ・タートルズ代表の荻堂盛助さんに誘われ、「リハビリにいい」という軽い気持ちで始めた。走ってみると「地面ぎりぎりで風が気持ち良かった」。腕の長さも競技向きで、疾走感に満ちた地上1メートル以下の世界にのめり込んだ。一度は終わったと感じた人生は、競技との出合いが新たな扉となり、躍動していった。
5月で50歳を迎えたが、5年前のリオ大会決勝で1分4秒72だった400メートルで、今大会決勝は1分切り。飽くなき探究心が進化を支える。本番に向け、グローブを車輪に当てる角度やレーサー(競技用車いす)に乗る位置をミリ単位で調整してきた。ファイナリスト8人のうち、唯一の50代で最年長だったが「若い人と走った方が刺激がもらえる。まだ戦える」とどこ吹く風だ。自身の障害や競技で多くの苦難を乗り越えてきた沖縄障がい者スポーツ界のレジェンドは、29日の1500メートルでもさらなる偉業を成してくれそうだ。