共に遊び、励まし合った2人の男子生徒がいた。1人は声楽家となった。もう1人は経済の研究者となった。声楽家の翁長剛(74)と前副知事の富川盛武(73)である。共に普天間高校の18期である。
翁長剛は1947年、具志川村(現うるま市)平良川で生まれた。具志川中学校の合唱部で活動したが、途中でコザ市(現沖縄市)の山内中学校に転校した。
普天間高校では柔道部に入ったが、「先輩に投げられる役。3カ月で辞めた」。周囲の同級生は学習意欲が高く、覇気にあふれているように翁長の目には映った。「何をしていいか分からない。ある意味、落ちこぼれだった」と語る。
そんな翁長は電気工作が得意で、自分でオーディオ機器を組み立てた。「作ったアンプを試すため、普天間にあるレコード店でベートーベンの『運命』を買った。面白いな、と思った」
琉球大を受けたが、不合格。試験後、進路を話し合う席で「音楽をやりたい」と答え、教師を驚かせた。困った翁長の父は、コザ高校音楽教諭の嶺井政三に息子を託した。「スペインでギターを学びたい」と意気込む翁長に対し、嶺井は「まずは琉大の音楽科に入りなさい」と諭した。
嶺井の下で懸命に学んだ翁長は琉大に合格。さらに城間繁の指導で東京芸術大学声楽科に進んだ。80年にはイタリアに留学する。この間、「理詰めで音楽を考える」ことを模索し続けた。
音感ではなく、データを積み重ねて合理的、科学的に音楽を考えた。その手法は規格外で、周囲をびっくりさせた。
「犬は遠ぼえをする。カラスは小さな時からカーと鳴く。なぜだろう」。それを突き詰めるため、さまざまな動物をまねてみた。「カエルの気持ちになって10日間、床を跳び続けた」
原点を追求する練習は役に立った。翁長は国際コンクールで入賞を重ねた。
帰国後、県内外や海外で公演を続けるとともに、県立芸術大学で後進の育成に努めた。現在、沖縄オペラ協会会長を務め、混声合唱団アミーチや声楽グループ・ソーニョを主宰する。
「年をとり、たるんだ筋肉をどう持ち上げ、声を出すかが課題だ」と翁長。理詰めで音楽を考える姿勢は今も変わらない。
富川盛武は1948年、北谷村で生まれた。北玉小学校、北谷中学校で学び、普天間高校へ進学。翁長と出会った。「高校が同じ。2人とも浪人をして大学に入った。貨物船に乗って一緒に海外へ行こうと語り合ったこともあった」
医師を目指し、大学模擬試験で上位の成績を収める同級生がいた。富川も負けじと勉強に励んだ。「上位者の席次が校内で張り出された。僕も頑張ったけれど、真ん中に名前が出るくらいだった」と振り返る。
個性的な生徒もいた。「先生を質問攻めにする生徒がいた。実家で飼っている馬に乗って登校する生徒もいた」と富川。自身は「僕は普通の生徒。あまり印象には残らなかったと思う」と語る。
一浪後、琉球大へ入学し、経済学を学んだ。復帰運動が高まりを見せる中、富川は友人らと読書会を開いた。「主席公選で『イモはだし』を論じた。B52が墜落し、ゼネストの動きがあった。コザ騒動も起きた。政治の季節だ」。ノンポリではいられなかった。
琉大卒業後、明治大学大学院へと進む。「詰め込みの受験勉強は嫌だったが、大学では好きなテーマを勉強した。知的刺激が大きかった」と富川は語る。
帰郷後、沖縄国際大学の講師となり「合理的経済ではなく地域、風土から見た研究をすべきだ」と説く玉野井芳郎教授と出会った。調査を通じて社会インフラの充実だけでは説明できない幸せを沖縄の離島に見た富川は、研究にのめり込んだ。87年、初の著書の題名に「魂(まぶい)落(うとぅ)ちゃる沖縄人(うちなーんちゅ) 人間、文化、風土の視点からみた沖縄経済」と付けた。
「通常の経済学だけでは計ることはできない。ウチナーンチュの視点が必要だ。そこに基地問題も出てくる」
沖国大学長を経て、2017年に県副知事に就任。県行政の中枢で地域振興の在り方を模索した。
「研究は今でも面白いと思う」と語る富川は、知的刺激を求め続ける。
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)