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世替わり目の当たりに 定時制廃止で同窓会発足 上間優さん、名幸諒子さん 普天間高校(7)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1984年3月の定時制の廃課程を記念して建てられた石碑

 大同火災海上保険の会長、上間優(65)は普天間高校の26期。「いろんな人と知り合い、刺激を受けた3年間だった」と語る。

 1956年、宜野湾市普天間の生まれ。普天間小学校、普天間中学校を経て71年に普天間高に進んだ。「エリート一貫教育と言っているんです」と笑う。今帰仁村出身の父は普天間で質屋や家電店を営んだ。

上間 優氏

 普天間高には市外からも多くの生徒が集まった。「コザの山内中出身の生徒は優秀だった。北谷中出身の生徒はエイサーのおかげで団結力が強かった」と回想する。

 文武両道の校風の中で高校生活を送った。2期上の野球部員は春の甲子園に出場した。国費制度で医者を目指し、勉学に励む同級生も多かった。上間は大学受験を意識しながらラジオの深夜放送と音楽を楽しんだ。

 「僕の時はフォークソングの時代。反戦フォークから流れが変わり、吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫が登場したころだ」

 米軍の大量解雇にあらがう全軍労のデモ行進が繰り返された。72年には復帰を迎えた。上間は時代の転換点を目の当たりにした。

 「復帰によってドルから円への通貨切り替えがあり、大きく時代が変わっていくという予感があった。沖縄はこれからどうなるのか、不安と期待が交錯していた」と振り返る。

 卒業後、上間は琉球大学経済学部に進学。地元沖縄の金融機関を志望し79年、「発展途上の会社だった」という大同火災に入社した。2012年に社長、18年に会長となった。

 社業と並行して1950年に創業した県内企業11社でつくる「1950倶楽部」の会長を務めた。社会貢献を目指した5年間の活動の区切りとして今年3月、「沖縄経済と業界発展」と題する本をまとめた。

 「1950年、戦後の混乱期にあって沖縄でどんどん企業が生まれた。本を作りながら、創業者の苦労を感じた」

 コロナ禍が続く中で、上間は県経済の歩みを見つめ、明日の沖縄を思い描く。

名幸 諄子氏

 1959年に創業した沖縄時事出版の社長、名幸諄子(81)は定時制1期である。「今年で創業62年。いろんな方々に支えられてきました」

 40年、中城村当間で生まれた。沖縄戦では父や祖母と共に激戦地をさまよった。戦後は中城村当間で暮らし、中城小学校、中城中学校で学んだ。

 生活は貧しく、高校進学の意思はなかったが、中学校の成績は良かった。両親には内緒で56年に創設された普天間高定時制に申し込んだ。「自分で働くから大丈夫。迷惑は掛けない」と両親を説得した。

 入学後、野嵩にあった商店に住み込みで働きながら通学した。キャンプ瑞慶覧でメイドとして働いたこともある。

 入学生は60人。さまざまな生徒が普天間高定時制に集まった。「年の離れた社会人の生徒も多かった。彼らは優秀でした」

 学校で夕食を食べた。「早い時間に登校した時は、配給米に混ざっていた小石を取り除く作業をやった。夕食は雑炊みたいなもの。調理のおばさんたちは家族みたいなものだった」と懐かしむ。

 その頃、米統治に抵抗する勢力を束ねる「民主主義擁護連絡協議会」が支持を集める「民連ブーム」が起きた。名幸はメイドをしながら政治運動に参加した。忘れられない体験がある。

 「3人の男性に呼び出され、『沖縄の活動家のことを教えてほしい』と頼まれた。スパイ活動の強要ですよ。正義感から私は『話せることはない』と断った」

 そのことが影響したのか。名幸は基地への通行パスの更新を止められ、メイドの仕事を失った。

 卒業後、沖縄時事出版に入社。社長だった宜野座嗣剛と慣れない出版事業に奮闘した。同時期、沖縄県青年団協議会の事務局に入り、復帰運動にも関わった。91年、宜野座から社長を引き継ぐ。

 名幸ら1期生は「一樹会」という同窓会をつくった。「卒業する時、学校に木を植えました。同級生とは今も連絡を取り合っています」と名幸は語る。

 普天間高は84年に定時制を廃止し、28年の歴史に幕を下ろした。学び舎を巣立った卒業生は1294人であった。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)

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