[日曜の風・吉永みち子氏]東京パラ閉幕 共に生きる社会へ


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吉永みち子 作家

 パラリンピックがきょう閉幕する。オリンピックと同様、日本がメダルを取る度に熱く報じられ、感動した! 元気をもらった! という言葉があふれた。それぞれの選手がどれだけの絶望や悲しみや苦しみを乗り越えてきたのか、想像を絶する努力を積み重ねてきたのかと思う時、すぐ弱音を吐きまくるヘタレの私など感動を通り越して圧倒され続けていた。人間の可能性に心が揺さぶられながら、どこかで違和感も覚えてもいた。

 何だろうこの感覚はと考えていた。オリンピックとパラリンピックはオリパラなどとまとめられ、記録も意識も近づいているような気がする。でも、オリンピックが会期中に頂点のメダル到達を目標とするなら、パラリンピックは障がいを持って生きる人たちと共生し誰もが自分の人生を生きられる社会を目指すことが目標なのではないか。パラリンピックは会期中より終わってからの方が大事なのである。
 現在、世界人口の15%、約10億人の障がいを持って生きる人たちがいて、その8割は発展途上国や紛争地で暮らし、スポーツどころか生きることが精いっぱいの状況に苦しんでいるという。共に生きる社会は遠く、一応、先進国らしい日本だって、目標にはほど遠い。

 そう考えると、感動したり元気をもらって完結したりしている場合じゃない。パラアスリートから勇気をもらったのなら、それを世の中を変える方向で返していくことがパラリンピックの意義なのだと思う。そこを忘れてしまうと、パラアスリートは乗り越える力を持った勝ち組的な存在になり、10億人が置き去りにされてしまう。

 先日、みんなが感動した開会式の片翼の小さな飛行機が、みんなの応援を受けてついに飛び立つという演出に、別に飛ばなくてもよかったんじゃないかと指摘していた人がいた。言われてハッとした。当たり前のように飛べてよかったと思ってしまう自分にがくぜんとした。

 どこかで「できることがいいことだ」という価値観が無自覚にパラにも浸透してはいなかっただろうか。やれば何でもできるのだ。できないのは努力しないからだ。それは何か違うと思う。飛べなくても、できなくても、一緒に生きよう。大会が掲げた理念は「多様性と調和」だったのだから。

(作家)