prime

「ずぶぬれになって集会へ」安富祖久明さん 農業とテニス、原点に…普天間朝重さん 普天間高校(8)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
普天間高校の校訓「質実剛健」「進取創造」を刻んだ石碑

 離島・へき地医療の向上に原点を置く一般社団法人徳洲会の理事長で医師の安富祖久明(71)は普天間高校の20期である。「僕は大人しくて目立つ方ではなかった。同級生では知らない人もいると思う」

安富祖 久明氏

 1950年、宜野座村の生まれ。幼少時にコザ市(現沖縄市)に転居し、諸見小、コザ中で学んだ。その後、普天間中へ進む。父は前県立芸大学長の比嘉康春らを育てた琉球古典音楽の安富祖竹久である。

 幼い頃、野口英世の伝記を読み、「貧乏人こそ人の何倍も努力するんだ」という思いを抱いた。青年期、深沢七郎の「楢山節考」に刺激を受け、人間の悲哀を知り弱者を慈しむまなざしの大切さを知った。

 65年、普天間高校に入学。「質実剛健」の校訓が印象に残る。「スポーツが盛んで教育熱心。われわれのころは学力向上に懸命だった。那覇高校、首里高校に負けるな、追いつけという感じだった」

 それでも校風は自由だった。「先生から『ああしろ、こうしろ』と生徒に言うことはなく、生徒の理性に任せるという雰囲気だった」と振り返る。部活には入らなかったが、クラスの友人と野球やバスケットボールを楽しんだ。

 普天間高校は多くの医師を輩出した高校である。安富祖も高校3年から本格的に医師を目指した。それは沖縄の激動期と重なる。政治意識も芽生えていった。

 「ずぶぬれになって集会に参加した。沖縄がどうなっていくのかを考えた」

 卒業後、東京医科歯科大学に入学。学生運動に身を投じた。「権力との闘いに敗れて挫折した。傷心の中で医療への忠誠を誓った」。大学付属病院などで務めた後、84年に帰郷し、南部徳洲会病院に入った。「生命だけは平等だ」という理念を掲げる徳洲会の創始者、徳田虎雄との出会いがあった。

 同じ普天間高出身で徳洲会の医師、金城浩と共に沖縄の離島医療の充実に努めた。昨年6月、徳洲会の理事長に。週の半分は東京勤務。コロナ禍への対応に奮闘する日々を送る。「皆で協力し、コロナを乗り越えなければならない。意見をぶつけ合い、県民の命を守ろう」と安富祖は呼び掛ける。

普天間 朝重氏

 沖縄県農業協同組合(JAおきなわ)理事長の普天間朝重(64)は28期。軟式テニスの現役選手でもある。「農業とスポーツ。思えば、いずれも高校時代が出発点だ」

 1957年、中城村南上原で生まれた。家は農家だったが、首里にあった琉球大学の移転で土地を手放し、那覇市や中城村の学校を転々とした。「友だちができる前に転校を繰り返した。社会人になって『お前、朝重だろ』と声を掛けられることもあった」

 普天間中学校から普天間高校へ進んだ。スポーツが好きで、普天間高ではボクシング部に入部するつもりだったが、考えを変えた。

 「ボクシング部が練習する体育館に向かう途中、男女の軟式テニス部員が練習しているのをたまたま見た。『いいな、面白そうだな』と感じ、軟式テニス部に入った」

 2年になり、キャプテンとして部員を引っ張る立場となる。「インターハイに出場できるチームを考え、練習メニューも自分たちで工夫した」と語る。普天間は今もテニスラケットを握り続ける。ソフトテニスのJAおきなわ杯全沖縄選手権の創設にも関わった。

 高校生の頃から農業を志していた。現在の琉球大学の敷地が畑だった幼い頃、サトウキビを担いで泥道を歩んだことが思い出に残る。「琉大に土地を売って農業を離れたが、いつかは中城に戻って農業をやるつもりだった」と普天間は語る。

 琉球大学農学部に進学。畑には戻らなかったが、1981年に県信用農業協同組合連合会で働くこととなった。2年間、宇都宮大学大学院で学び、日本の農業の現状と将来を学んだ。

 「大学の先生や学生たちと『日本の農業はどうあるべきか』『日本のシステムをこれでいいのか』という議論をした。この体験は大きかった」

 JAおきなわ理事長となって2年。「日本の大きな流れの中で沖縄の農業を考えければならない」。普天間は沖縄の農業の今とこれからを見つめている。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)

クリックで普天間高校の校歌が聞けます。