沖縄銀行頭取、山城正保(61)は普天間高校の30期。勉学に励み、スポーツを楽しむ高校生だった。
1959年、宜野湾市神山で生まれた。戦前の集落は米軍普天間飛行場として接収された。宜野湾小学校、嘉数中学校を経て75年、普天間高校に入学した。
「校風は文武両道。われわれの頃はバスケットボールや野球が盛んだった」と山城は語る。在校時の76年、野球部が新人大会で優勝し、九州大会や明治神宮野球大会にも出場した。
高校1年の頃から大学受験を意識し、学習塾に通った。スポーツ系の部活動には所属しなかったが、さまざまなスポーツイベントで汗を流した。
「中間テストや期末テストが終わると、キャンプ瑞慶覧内の野球場でクラス対抗野球大会が開かれた。1年生、2年生の時は盛んに野球をやった」と山城。バスケットボールやバレーボールの大会もあった。
毎日の昼食後も、体育館で3人制バスケットボールに興じた。他にも楽しい思い出がある。
「2年生の時、クラスの仲間と普天満宮の裏にある松林で弁当を食べた後、高校生ながら陣取り合戦をやっていた。みんな仲良し。遊んでばかりでした」
山城の学年で始まった普天間高校の伝統があるという。卒業式の前、3年生を送り出す予餞(よせん)会で2年生が披露する芸だ。
「アメリカの女性3人組のボーカルグループ・スリーディグリーズをまねて、スポーツ系のエース部員が衣装を着て歌った。50期ぐらいまでやったのではないか」
卒業後も社会人となった同窓生が、職場などでこの芸を演じることがあったという。山城も銀行内の催しで披露したことがある。
地道に受験勉強を続けてきた山城は琉球大学法文学部に進む。82年、沖縄銀行に入行。2014年に常務、18年に頭取となった。
普天間高での3年間を振り返り「高校時代の財産は人だ。銀行に入っても同級生や先輩、後輩にお世話になってきた。個人的に母校のためにお手伝いできればと思っている」と語る。
山城の同期に、ひめゆり平和祈念資料館の館長、普天間朝佳(61)がいる。山城が挙げた普天間高のスリーディグリーズの芸を覚えている。「ハンドボール部の部員たちがやっていましたね」
中城村南上原の生まれ。小学校低学年の頃、村立津覇小学校の南上原分校で学んだ。当時の南上原は自然が豊かな地域だった。「畑があり、山野があった。ヤマモモやグミ、野イチゴがおやつだった」
中城中学校を経て、普天間高に入学した。「田舎から町の学校に行くという意識だった」という。一時、柔道部で活動。並行して社会研究クラブに参加し、沖縄で起こるさまざまな問題について考えた。
「復帰によって新しい時代になると思ったのに米軍の事件・事故が起きた」。米軍の実弾砲撃演習に抗議する恩納岳の闘争や石油備蓄基地に反対するCTS闘争にも関心を寄せた。
ニューミュージックを愛聴し、映画館に通った。洋画のせりふを参考に、英語が得意な友人と英作文を学んだ。「勉強になった。これがきっかけで成績も上がった」
琉球大学に入学。ジャーナリストを目指し、広報学を指導する大田昌秀のゼミで学んだ。卒業後、那覇市役所やタウン紙編集部などで働き、1989年、開館を控えたひめゆり平和祈念資料館に就職した。「博物館運営の右も左も分からない中、バタバタの開館だった」と振り返る。
2018年4月、戦後生まれ初の館長に就任した。開館以来、資料館を支えてきた元学徒隊体験者の他界に接してきた。「先生たちは自分たちの後継者を自分たちの手で育てた。元気な姿を見ることができず寂しいが、大きな仕事を残してくれた」と語る。若い世代に親近感を抱いてもらえるよう2度目のリニューアルを今年実施した。
昨年から続くコロナ禍で入館者数が激減した。ツイッターで窮状を訴えたところ多額の寄付金があった。「驚いた。多くの人が資料館をなくしてはいけないと思ってくれている」
開館から32年余。逆風の中で普天間は、沖縄戦体験の継承を担う資料館の意義をかみしめている。
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)