沖縄戦乗り越え、今思う感謝 全員80代の5人きょうだい「生きていることが幸せ」


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きょうだい5人の写真を手に思い出を語る宜保民子さん(左)と前原時子さん=宜野湾市

 20日は敬老の日。総勢50人の子や孫に恵まれ、元気に5人全員が80代のきょうだいがいる。長女宜保民子さん(88)=豊見城市、次女大村朝子さん(85)=那覇市、三女前原時子さん(84)=宜野湾市、四女仲原孝子さん(81)=同、長男仲原義一さん(80)=同=だ。戦禍に翻弄(ほんろう)され、戦争を機に父の孫助さんと離れ、母のナヘさんが長年1人できょうだいを育てた。きょうだいは「昔は食べ物に困る生活をしていたけれど、今ではみんな健康に長生きできている。苦労して育てた母に感謝している」と語る。

 本部町具志堅出身の両親は結婚後に大阪に移り、紡績工場で働きながら4姉妹を育てた。1940年、孫助さんが召集されたことをきっかけに、ナへさんと4姉妹は沖縄に帰郷した。長男の義一さんを妊娠していた。

父・孫助さんが沖縄に戻った後に撮った家族写真。後列左から長女民子さん、次女朝子さん、三女時子さん、四女孝子さん。前列左から母・ナへさん、孫助さん、長男義一さん(前原時子さん提供)

 沖縄戦では具志堅で米軍に捕まり、大浦収容所で約1年過ごした。具志堅に戻っても生活は困窮し、ソテツやカタツムリを食べて生き延びた。戦後しばらく、ナへさんは魚や豆腐を売り歩き、子どもたちは近所の家の子守をするなどして、食事や洋服をもらい生計を立てた。

 きょうだいそれぞれが就職や結婚をしていた1970年ごろ、家族にとって忘れられない出来事が起こる。約30年ぶりに父の孫助さんと再会したのだ。

 孫助さんは長崎で被爆し、終戦を迎えていた。終戦直後に1度、沖縄に家族の消息を尋ねる手紙を出したが、ナへさんはお金がなく返事を出すことができなかった。孫助さんは沖縄戦の惨状を知り、一家全滅したとあきらめ、長崎で結婚したという。

 だが、孫助さんは沖縄にいる家族を忘れられなかった。数十年後、もう一度ナへさんにハガキを出し、連絡が付いたことで帰郷が実現した。長崎にいる妻も、孫助さんが沖縄に戻ることに同意してくれていたという。孫助さんは帰郷してから沖縄で亡くなるまでの約4年間で、長男・義一さんの結婚式に参列することもできた。長女の民子さんは「お母さんはお父さんのことが大好きだったから、最後に一緒に過ごせてうれしかったはずだ」とほほえみながら振り返った。ナへさんは1992年に80歳で他界した。

 きょうだいが70~80代になってから、いとこも含めて親類同士で2カ月に1回程度集まるようになった。次女の朝子さんが大量のあしてびちを用意し、時子さんの家で夜遅くまで昔話に花を咲かせる。しかし、新型コロナウイルスの影響で集まりを控えるようになって、1年半が過ぎる。

 しばらくきょうだい全員で顔を合わせていないが、戦禍も乗り越えた家族の絆は固い。時子さんは笑いながら「コロナで大変な時だけど、5人全員が健康で生きていることが幸せ。また皆で集まりたい」と願った。

(嶋岡すみれ)