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引っ込み思案の「ロック少年」が変わった日 ジョニー宜野湾氏 普天間高校(12)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社
ジョニー宜野湾氏

 毎日のように、この人の歌声がテレビやラジオから聞こえてくる。ミュージシャンのジョニー宜野湾(63)は普天間高校の28期。今とは違い、在学中はあまり目立たなかったという。「引っ込み思案で、おとなしい生徒でした」

 1958年、宜野湾市神山で生まれ、宜野湾小学校、嘉数中学校で学んだ。中学の頃、自室でラジオを聞き、6歳上の兄から学んだギターを弾いて楽しんだ。

 「いろんなロックやフォークを聞いた。兄から最初に教えてもらったのはフォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』と、岡林信康の『山谷ブルース』だった」

 73年、普天間高校に入学した。音楽とギターに浸る生活が続いた。学校帰り、普天間で時計店を営む祖父母から小遣いをもらい、レコードを買ってはギターの練習に熱中した。部屋にこもり独学でギターを練習する「ロック少年」だった。

 自室で磨いたギターの腕前を学校で披露することはなかった。「スリーフィンガーピッキング」というギターの奏法ができる人を探す同級生の呼び掛けにも応じることはなかった。1年生の時の苦い思い出だ。

 「弾けるけど、手を挙げることができなかった。僕は情けないやつだと思い、悶々とした。本当はすごいシャイなんです」

 フォークソングを歌っている同級生がうらやましかった。彼女はいなかった。「好きな子はたくさんいるけど、声を掛けることができない。勝手に振られた気分になっていた」と語る。

 そんな引っ込み思案のロック少年に転機が訪れたのは高校3年の時。友人の1人がクラス会でエレキギターを弾いている姿を見て、心が動いた。「決心した。きょうは僕も弾こう」。友人のギターを手に、ディープパープルの楽曲を弾いてみせた。

 「するとクラスメート全員がシーンとなった。目を丸くして『うおーっ、すごい』と言ってくれた。その時初めて、自分の中で自信が生まれた」

 その日から周囲の目が変わったという。学校でもギターを弾くようになり、卒業前にクラスメートでバンドを組んで演奏した。

卒業生の講演を通して生き方などを学ぶ普天間高校の「普天間塾」で歌うジョニー宜野湾氏=2002年11月

 普天間高校を卒業し、社会科の教師を目指して沖縄国際大学へ進む。並行してバンド活動に打ち込んだ。学内のロッククラブにも参加し、部長になる。琉球大、沖縄大のロッククラブとも交流し、合同のコンサートも開いた。この交流の中からロックバンド・ハートビーツが生まれた。

 82年、ハートビーツのメンバー4人は上京。メジャーデビューを果たし、アルバムを2枚発表した。しかし、思うように売れなかった。「厳しかったです、東京は。アルバイトをしながら頑張ったけれど、うまくいかなかった。青春時代とは違った」

 86年に解散。29歳で帰郷した。失意を抱いたまま那覇空港に降り立った。蒸し蒸しした沖縄の空気に触れた時、ようやく元気がよみがえってきた。

 30代は懸命に働いた。書店の店員、不動産業、移動パーラー、鉄筋溶接工と次々と職種を変える中で、再び音楽がやりたくなった。

 「鉄筋工をやっている時、いろんな曲が生まれ、自然とうちなーぐちが出てきた。『うりひゃー』とか。沖縄に帰ってきて素直になったんでしょう」

 98年、自宅で録音した初のソロアルバム「うりひゃあでぇじなとん」を発表した。アルバムは驚くほど売れた。音楽仲間だった現県知事の玉城デニーも担当していたラジオ番組で紹介してくれた。県産品歌手・ジョニー宜野湾の誕生だった。

 ソロデビューから23年。コンサートやウクレレ講師、テレビのグルメ番組出演など幅広く活動してきた。コロナ禍でコンサート活動が厳しくなる中、ユーチューブに「ジョニー宜野湾チャンネル」を開設した。「家族でやっている。楽しいですよ。昔の曲をアップしたり、グルメをやったり」

 代表曲の一つ「雨のち晴れ」も発信した。全編うちなーぐちだ。

 「顔(ちら)ぐゎあ上(あ)ぎてぃ 少々(うふぇ)笑てぃんでぇ 明日(あちゃあ)なれ~から~ 又(また)太陽(てぃーだ)上がいんど~」

 コロナ禍でくじけそうになり、涙を流した人、やけを起こしそうになった人を優しく励ましてくれるような歌だ。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)

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